もうずいぶん古い話だが、ボクは二十歳前後から二十代半ばまでの五、六年間、経済学の本をよく読んだ記憶がある。 経済学といっても、マルクスの「資本論」と、その理論を基礎にして厳密な社会科学としての経済学を構築した宇野弘蔵
死夢
この頃 深夜から未明にかけて 死体になる夢を見る 変色して 徐々に腐り ただれ ねとねとして 汁状に 眼 耳 鼻 口 頭のさまざまな穴からうじ虫が這いずりだし あるいは 首や下腹部の皮を破って うごめいている 内部では
移動
足の裏に眼がある。闇の中でも豆電球のように光り、時折まばたきする。右足と左足の裏に一個ずつある。ベッドにあおむけに寝転がってぐっすり眠っているのだが、足の眼はぽっちり開いて、部屋の壁の姿見に映った足の裏を見つめている。
虚空
昔、種々の物質が結合して、仮の男と仮の女が生まれた。彼等はこの束の間の現世で縁あって同じ屋根の下で暮らした。縁とは、愛の異名だった。 四十三年後の未明。仮の女は元の種々の物質に分解してこの世から絶えた。やがて仮の男も
闇の上に
静かに 流れるように 光が 降っていた 横たわるものすべての 闇の上に
滝沢克己の「『現代』への哲学的思惟」
この本の著者は、一九五八年に洗礼を受けキリスト教の信者になっているが、一九三三年、二四歳でドイツに留学し、ボン大学でカール・バルトに学んだことがその発端だ、そう言って決して過言ではないと思う。ただ、ドイツ留学へ出発する
夜の雨
雨もよいする 六月のたそがれ きょうも公園の 花園を歩く 紫 うす紅 白 あじさいは咲き乱れ ゆりの花々が小さな声で もう夜のおしゃべりを始めた 霧雨に揺れる ラベンダーの薄闇に あの人がいる 霊の足音が
星野元豊の「浄土の哲学」
今から四十三年昔、二十六歳の時に夢中になってむさぼり読んだこの本を、ボクはこの歳になってもう一度開き、最終行を見つめて、本を閉じた。懐かしくて胸が震えた。集中した読書をして重たくなったまぶたを休めるため、ベランダに立っ
星野元豊の「浄土」
ボクは二十六歳の時、この本を手にして、感動した。もう四十三年昔の話である。 このところ、十代二十代の頃に読んで、スゴイ! そう思った本を再読している。贅沢な老後の時間である。 「浄土ー存在と意義」 星
ローザ・ルクセンブルクの手紙
きょうが最終回である。今まで、ローザ・ルクセンブルク選集全四巻、資本蓄積論全三冊を学んできた。芦屋芸術主催の「ローザ・ルクセンブルク読書会」第八回最終回の教材は、これである。 「ローザ・ルクセンブルクの
草の実を食べていました
いつも ふたりで歩いた 近所の 公園の ハラッパに 鳥が おおぜい やって来て 草の実を 食べていました つんつん首をあげさげして せわしなく じっと出来なくて ちょんちょん跳びはねて 雲ひとつない青空の下 五月の昼さが
ミニバラ
毎日 水やりをしていたかいがあって えっちゃんが 愛していた 赤いミニバラが ことしも わが家の庭の ウッドデッキの東側を いちめん 彩りました けさ ハサミで一輪切って 赤いグラスに立てて ダイニングの東窓の飾り棚に四
ローザ・ルクセンブルクの「資本蓄積論」第三篇
芦屋芸術の第七回「ローザ・ルクセンブルク読書会」は、マルクスが「資本論」第二巻で論及した社会的総資本の再生産表式に対して、特にその拡大再生産表式に対して、ローザ・ルクセンブルクが真正面から批判した論文を取り扱う。 &n
ローザ・ルクセンブルグの「資本蓄積論」第二篇
前回の読書会で勉強したとおり、人間の労働はいつの時代にあっても、自分の一日の消費手段以上の生産物を生産する。これが人間の基本的な特色で、この土台の上で、人間の文化は形成されている。 さて、ボクラが現在住んでいる資本制
ローザ・ルクセンブルグの「資本蓄積論」第一篇
「人間」という言葉をボクは時たま使うが、おそらくボクだけじゃなく、少なくとも年に一回か二回くらいは誰だって「ニンゲン」とつぶやいたりしてるんじゃないか、ボクはそう思っている。 ところで、いざ、じゃあ、君、「人間」って
ローザ・ルクセンブルク選集第四巻(1916~1919)
虐殺の日が近づいた。信じられない話だが、改良か革命かの政治方針で激しく論争したとはいえ、かつてドイツ社会民主党の同志、エーベルト=シャイデマン一派の両手が、全身が、ローザの血で紅く染められる日が来た。
ローザ・ルクセンブルク選集第三巻(1911~1916)
芦屋芸術の「ローザ・ルクセンブルク読書会」も第三回を迎えた。本日の教材は以下の通りである。 ローザ・ルクセンブルク選集第三巻 現代思潮社 1969年12月25日新装第1刷 (訳者 高橋宏平、野村修、田
ローザ・ルクセンブルク選集第二巻(1905~1911)
一九六九年といえば、もうトテモ古いお話になってしまうが、その頃、マッセンストライキという革命戦略を煽動する日本の新左翼があった。この本を読んでいて、ふとそんな二十歳前後の思い出が蘇ってきた。「芦屋芸術」がローザ・ルクセ
ローザ・ルクセンブルク選集第一巻(1893~1904)
来年の一月十五日でローザ・ルクセンブルクが虐殺されて百年を迎える。一足早いが、「芦屋芸術」としては、ローザ・ルクセンブルクの没後百年の行事として、彼女の遺した文章の「読書会」の開催を企画している。といっても、この「読書
ルカーチの「理性の破壊」
この本を買ったのは十九歳の時で、もうかれこれ五十年近く昔のお話。おそらく最後まで読もうとはしたのだろうが、途中で投げ出してしまった。ボクの悪いクセで、八割九割がた読み終わっていても、おもしろくない、そう思ったら最後、そ
世界の詩集第十一巻「世界恋愛名詩集」
この詩集は二千年以上にわたる西欧文化圏の詩人七十七名、計百二十五篇の恋愛詩のアンソロジーである。収録されている詩で最も古い詩は、ギリシアの詩人イビュコスの「春されば」で、おおよそ紀元前六百年ぐらいに成立した作品である。
ルカーチ著作集第二巻「小説の理論」
この本をボクは十九歳の時に手にした。何故、手にしたか? この当時、マルクーゼも読んでいるから、所謂「フランクフルト学派」に興味を持っていたのか? 確かボクより三歳くらい年長で、フランクフルト学派を口にする男がいたが、こ
世界の詩集第十二巻「世界女流名詩集」
この詩集が「世界の詩集」全十二巻の最終巻である。女流詩人五十四人が登場する。「女に生まれて」、「恋愛と結婚」、「あこがれ・孤独・別離」、「自然ー四季おりおりの詩」、「時と永遠」、「世界の苦悩ー平和への祈り」、以上、全六
ルカーチの「歴史と階級意識」
ボクは共産主義者でもなく、また、現在、革命運動を実践しているわけでもない。だからこの著作をわかった顔をして批評するつもりはまったくない。その上、批評するにしても、ボクのような浅学の徒には意味不明の文章が多く、特に政治上
世界の詩集第十巻「ホイットマン詩集」
かつてボクはこの詩人の作品を一行も読んでいなかった。これと言って積極的な理由はなかったが、彼の本を手にしようとはしなかった。若い頃、所謂「ヒューマニズムの詩」や「説教臭い詩」に余り興味がなかったのだろう。 このたび、
マルクーゼの「ユートピアの終焉」
この本は、一九六七年七月十日から十三日にかけて、ベルリン自由大学において行われた講演、討論を構成したものである。訳者の解説によれば、この講演の行われる一ヶ月ほど前に、官憲のテロルに対する激しい抵抗運動があり、ベルリン自
マルクーゼの「エロス的文明」
この本は、「抑圧のない文明」、つまり現代のユートピアの可能性をフロイトの心理学をベースにして考察している。フロイトによれば、「文明は人間の本能を永久に抑圧することである」(本書1頁)。ということは、「抑圧のない文明」の
世界の詩集第九巻「ヘッセ詩集」
そして すべての罪悪と すべての暗い深淵からの たった一つの 熱望 終極の憩いがみたい そして ふたたび帰ることなく 墓場にたどりつきたい という熱望(「のけ者」第三連、141頁) 訳者星野慎
マルクーゼの「理性と革命」
なつかしい本を書棚から引っぱり出した。ドイツやイタリア、日本がファシズムに支配され、第二次世界大戦が勃発した最中、一九四一年にこの本はニューヨークで出版されている。 「理性と革命」マルクーゼ著 岩波書店
世界の詩集第八巻 「ヴェルレーヌ詩集」
この詩集も三年余り前に永眠したワイフの遺品の一冊だが、ボクは十七歳の時、「角川文庫」(昭和41年11月30日初版)で同じ訳者のものを買い、憑かれたように読み耽った記憶が、懐かしい。 世界の詩集8「ヴェル
「トラークル詩集」再読
ボクは十八歳の時、この詩集を手にした。その時は、没落していく、言葉全体が沈んでいく、そんな印象を受けた。何処へ? わからなかった。この詩人は小舟にのって夜の流れをくだっていくのだが、行き着く先はボクにはわからなかった。
世界の詩集第七巻「リルケ詩集」
この詩集もワイフの遺品である。ボクと出会う前の若き日に彼女はこの詩集を読んでいた。 世界の詩集7「リルケ詩集」 富士川英郎訳 角川書店 昭和42年10月10日初版 ボクはリルケを多少かじ
全訳「正法眼蔵」巻一 中村宗一著
さっぱりわからなかった。おそらく西暦一二四〇年前後、禅の修行者を前にした道元の説法を中心に書写されたものだろうか。こういった特殊な状況下で特殊な言葉で語られた文を、ボクのような門外漢がわかるはずもないし、また、わからな
世界の詩集第六巻「ランボー詩集」
ボクのワイフの遺品であるこの詩集は、頁がよく繰られていて、かなりくたびれている。この詩人の詩を十九歳の彼女は、何度も繰り返して読んだのだろう。 世界の詩集6「ランボー詩集」 金子光晴訳 角川書店 昭和4
世界の詩集第五巻「シュトルム詩集」
シュトルムの名前を初めて知ったのは、十代に読んだ立原道造の詩集「萓草に寄す」の中だった。詩集の中の一篇「はじめてのものに」を読んでいて、「エリーザベトの物語」という一語に出会った。確か巻末の注釈で、シュトルムの小説「み
世界の詩集第四巻「バイロン詩集」
この詩集もボクのワイフの遺品である。五十年近い昔、彼女が十九歳で読んだ本を、この歳になって、僕が読んでいる。彼女の供養だと思っている。ケッタイな話だ、ほとんどアブノーマルか。 世界の詩集第四巻「バイロン
山中従子の「架空二重奏」
山中従子が「架空二重奏」という詩誌を発行している。山中の個人誌で、毎号、詩・写真・散文で構成されている。 創刊号 2016年1月10日発行 2号 2016年5月17日発行 3号 2
世界の詩集第三巻「ハイネ詩集」
この詩集はボクのワイフが十九歳の時に読んだ一冊である。彼女がこの世を去ってから、ボクは彼女の遺品となった書物を折に触れ、読んでいる。特に、まだボクラが一緒に生活をしていなかった十代から二十代の初め頃に彼女が読んでいた本
世界の詩集第二巻「ボードレール詩集」
ワイフの遺品、世界の詩集の第二巻は「ボードレール詩集」である。ボードレール、つまり言葉の毒薬、そう考えて大過あるまい。 若い頃、ボードレールは比較的よく読んだ作家だった。人文書院から出ている「ボードレール全集」全四巻
「般若経」を読む。
母方の祖母はよく般若心経を誦していた。まだ若い頃に祖父、つまり彼女の夫が行方不明になったことが影響していたのだろうか。祖父は戦前、政治犯等を調査する外事課に勤務していて、満州で変装している姿を見かけたという噂もあったが
世界の詩集第1巻「ゲーテ詩集」
この詩集はワイフの遺品である。全十二巻の第一巻。ボクは彼女がこの世を去ってから、遺された彼女の本を出来る限り読んでしまおう、特にボクと出会う前に彼女が読んでいた本を。この詩集もそんな本の中の一冊である。
「ふたりだけの時間」について
きょうはボクのワイフの三年目の命日である。ちょうど二年前のきょう、二〇一五年七月十九日、仏教で言えばボクのワイフの一周忌の夜のことだが、我が家で二十人近い友達や息子夫婦を呼んで、ボクのエレキギター演奏をバックに、ケータ
さとう三千魚詩集「浜辺にて」
この詩人の作品の本質を言えば、「海を見つめる言葉」といっていいだろう。そこにはもちろん海はある。そして海につつまれて突堤があり、無数の波があり、突堤に打ち砕かれたしぶきがあがり、両耳には騒ぐ海の音と、頭上から落ちてくる
源信の「往生要集」
空海はその主著「秘密曼荼羅十住心論」で、十章ある十住心の第一章、第一住心を「異生羝羊住心」と規定している。異生とは凡夫、羝羊は雄羊。性欲と食欲のおもむくままに生きている生命体(人間)を宗教哲学的に分析して
「ブッダのことば」
意外ではあるが、この書には慈悲への言及が極めて少ない。慈悲を主題にしているのは、本書の33頁から34頁にかけて、「第一 蛇の章、八、慈しみ」だけである。まだこの頃、覚者(仏)の慈悲というはっきりした考え方はなく、世間で
「浄土三部経」
この本をボクは二十七歳の時に読んだけれど、読後、西暦100年前後に北インド辺りで書かれた仏教徒の宗教的ユートピア論だと思った。物質的・経済的に貧しい人々を底辺で働かせて、ほんの一握りの軍事力を持った権力者が贅沢三昧の生
星野元豊の「講解教行信証 補遺篇」
本書は星野元豊が八十六歳の時に上梓されている。丁度四十歳年下だったボクは、三十代半ばから徐々に好きだった宗教・哲学あるいは経済学の書をほとんど読まなくなっていた。もともと詩、とりわけ明治以降の近代詩から現代詩を十代から
星野元豊の「講解教行信證 化身土の巻(末)」
星野元豊の「講解教行信証」全六巻を読み終わった。長い浄土の旅から自宅に帰ってきた。自然虚無の身、無極の体。はたしてこの境界に達し得たか? 思えば三十代前半、第二巻の「講解教行信証 信の巻」の道半ばで挫折。言い訳になる
星野元豊の「講解教行信證 化身土の巻(本)」
「水俣がこんなに近いんですね。お寄りする前に水俣駅周辺を少しぶらぶらしました」 「山下さん、わたしは、あれには怒ってるんです」 ボクのような若造がこんな感慨を洩らすのは、失礼かもしれない。しかし、「怒ってるんです」と少
星野元豊の「講解教行信證 真仏土の巻」
「せっかくここまで来られたから、滝沢克己さんに会っていけばいいんだが、あいにく彼はドイツに行っているから……」 「滝沢先生……神即人、人即神の不可分・不可同・不可逆の原関係……この言葉を初めて知った時、震えました」 あ