当たり前の話だが 心の底は 陽の当たらない場所 いつも黒い絵の具で 宛先のない 手紙を書いている
月別: 2024年9月
音
このまま あの音が消えるまで 横たわっていよう ベッドの上で じっと 音 あたかもあの人の声のような
夜の宴
靴を脱いであがった 狭い廊下だった 壁と壁の間が五十センチ前後か 横を向いて渡った その先だった 宴という場所は とりあえず 右手の人差指と左足の親指が切り落とされた シチューのダシだ みんな どこか無かった 切断されて
アンナ・カヴァンの「氷」を読む。
こんな長編小説を読んだ。 「氷」 アンナ・カヴァン著 山田和子訳 サンリオ文庫 1985年2月28日発行 この作品の著者は一九〇一年に生まれ、一九六八年にこの世を去っている。二度結婚し二
亀、駆け出す。
昨夜は比較的早く帰宅した。午後十時半。左程酔っ払っていない。しかし、今週は負荷の多い週だったので、余程疲れていたのだろう、翌日、朝五時半まで寝てしまった。 パソコンを覗いて、三十分ほど読書。それから家事・朝食。庭掃除
湿っている枕
未明 窓ガラスをたたく雨の音で目覚めた ガラスに雨滴が いくすじも たれていた 左肩を下にして 眠っていた よだれがひとすじ くちびるの左端からたれていた 枕が少し湿っていた
円形
愛猫アニーが歩いている。ダークグレーな空間を。そこはおそらく薄暗い廊下なのかもしれないが。 猫トイレの中にうずくまっている。そう思った瞬間、彼女の姿は消えて、猫砂の上に、円形の柔らかい、ほとんどスープ状の排泄物が残さ
「芦屋芸術二十一号」の編集・校正が出来ました!
「芦屋芸術二十一号」の編集・校正が出来ました。今年の11月1日が発行日です。収録作品は以下の通りです。 contents <招待作品> イメージの扉 山中従子 5 予
秋の菜の花
出発しなければならないのはわかっていた。振り返ってみれば、先程まで眠っていたベッドは消えていた。背後に帰る場所はなかった。 前には、まだダイニングテーブルは置いてあるが、徐々に薄いガラスになって透き通り、やがて消えよ
すべては微細になっていく
父性遺伝子が砕けていた さらさら 音がしていた さらさら さらこん ああこのままじゃ みんな分解して 分散して ガラス塵になって 無数の微細遺伝子になってしまう 児性遺伝子は心配で どきどき はらはら はら
芦屋ビーチクラブ その45
昨夜も行きつけのスナックで遊び、帰宅したのは午前零時を過ぎていた。 今朝は六時半ごろ起床。そそくさと家事を済ませ、芦屋浜へ。 ゴミがたくさん漂着している。また、雑草もあちらこちらに伸びていて、そのうえ、この暑さ。な
亀の池は秋だった。
昨夜は十二時前にスナックを出て、タクシー。帰宅は丁度午前零時。 けさは六時前に起床。家事朝食を済ませ、庭掃除。きょうはカラスは一羽だけ。スズメはたくさん。おそらく五十羽くらい。彼等の朝ごはん。 それから、土曜日なの
鼻
ここ数日 脳の中は静かだ 何も出てこない 誰の姿も見えない 空洞だ 空洞が膨らんでいく 薄闇ではあるが 月も星もない 言葉もない 音もしない 一本の線もない 「私」もいない 破裂前だが 破裂しない もうすぐ 空洞の正体が
マゾッホの「残酷な女たち」を読む。
昔、この著者の代表作「毛皮を着たビーナス」を読んだ。周知のとおり、精神科医クラフト・エビングがマゾヒズムという言葉を生み出したその源泉、「マゾッホ」である。 「残酷な女たち」 マゾッホ著 池田信夫/飯吉
九月の雲
一言で 雲 と言っても 同じ雲は 二度と帰らない ここに 二度と *写真は、きょうの真昼、芦屋総合公園の西南端あたりから撮った雲。九月になっても真夏日が続いている。
苗村和正詩集「子規の庭」を読む。
詩作品といっても、さまざまな作品がある。だから、詩とは何かといっても、さまざまな何か、そう答える他に適切な言葉を私は持たなかった。 こんな詩集を読んだ。 「子規の庭」 苗村和正著 土曜美術社出版販売
もう一度 息つぎがしたい
甘くはないぞ そんな声がした 甘くみるなよ 底は深いぞ 取り返しがつかなくなるぞ いや もう終わっている 貴様 終わったな もう取り返しなんてつかない 両足を引っぱってる 底はな
無底の穴に
会いたい、しかし、いない。 これから先も、何が起こるかしれないけれど、これからも、この世を去るまで、待ち続けようと思う。これから先も。きっと。きっと、だ。 溺れていた この湖には 底がなかった &n
喜びの限界まで
もう限界だった 前頭葉から水が出た