芦屋浜 夏の終わり UFOのような雲 いっぱい *東北端のあずまやから、芦屋浜の東南端をスマホで撮った。
親水公園にて その15

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芦屋浜 夏の終わり UFOのような雲 いっぱい *東北端のあずまやから、芦屋浜の東南端をスマホで撮った。
友人山中従子の縁で、こんなステキな詩集を読むことが出来た。 「襤褸」 野間明子著 七月堂 2022年7月17日発行 この詩集の特徴は、昔綺麗な濃い空色だった薄紙がいまや変色して灰色に汚れ
親水公園の 木立の奥から あの女が浮かんで 両脚は定かでないが こちらに向かって 笑みを描いて やって来る 狂っているのか *夜来の雨は朝方にはあがって、降りそうでいて降らない、
不幸を 幸福に変えることはできない だけど 不幸を表現することはできる そのことをまた 再確認していた しばし橋の前で 空を仰いでいた *もう夏の終わりが近づいたのか、朝から激し
先日読んだ「反精神医学」の著者デヴィッド・クーパーと反精神医学運動を共にしたこの人の本を開いてみた。 「自己と他者」 R・D・レイン著 志貴春彦、笠原嘉訳 みすず書房 2000年5月19日第22刷 &n
この夏は例年になく暑い日が続いた。それでも真夏日や猛暑日の真昼時、わたくしは毎日親水公園を抜けて芦屋浜まで歩いている。浜の東北端のあずまやから海と空と雲をみつめている。右後方には、入道雲を背後にして六甲山が立っている。
炎天下 芦屋浜まで 歩く 誰もいない 真昼 ズックの靴音が 聴える *親水中央公園の西南端のあずまやから、スマホを北東へ向けた。
けさ、七時半ごろから、亀の池の掃除を始めた。ご飯の食べ残しや、彼の汚物、夏の炎天下、一週間前後にわたる水の腐敗。ポリエチレンの池の壁面や底砂をキレイにととのえるのに、毎回、おおよそ四十分を費やしている。その間、亀は自由
木の夢 私はこの木と同じだ 孤立している
君は何も考えない 光と風に触れている *真昼の炎天下、木を撮った。昼と夕、毎日散歩で出会う木だった。
雲は生きているのかもしれない ボクの中で *午後六時ごろ。きょうもまた親水公園を抜け芦屋浜に出て、堤防の西端から東の空を撮った。
まだ燃えていた あなたがいて また もうあなたがいない場所には 骨だけが残り 座っていた 笑っていた 確かに まだ燃えている わたしのこころと あなたの骨が 未明 輝きあって 重なりあって やわらかく開き ついに ふたつ
何も 浮かばなかった 雲が 浮かんでいた *盆前の休日、午後零時過ぎ。木陰の下、涼しい風の通り道に立ち、雲を撮った。
先日、「臨床精神薬理」第25巻4号(星和書店、2022年4月10日発行)を読んだ。また、その読書感想文を「芦屋芸術」のブログに私は書いた。結論から言えば、所謂「統合失調症」という病の原因は不明だった。あれこれ推論はある
朝方、豪雨がやって来た。しかし私は、この土曜日の午前中に二つのお願いを胸に秘めていた。 一つのお願いは、週に一回やっている、庭の池の掃除をやりたかった。もう一つのお願いは、洗濯だった。九時前にはパラつく程度の空模様に
夏の 朝 かよいなれた小径 ここでは 雑木と風と蝉が交響してる ソレは サーミン ザワミン ザクミン だ *写真は、朝九時過ぎ、親水中央公園から親水西公園へ向かう小径。
この道を 十九年間 ほとんど毎日歩いた 十一年間は ふたりで 残る八年は ひとりだった *朝九時過ぎ、我が家の南、親水公園の散歩道をスマホで撮った。芦屋浜にもこの道を歩いて出た。
夕風に 揺れる ひまわりの花々 わたしたちが別れた 七月の終わり *親水公園の東端にある花壇、ひまわりが満開だった。
雲は にぎやかだ そう思うときもあり 雲は さびしい そう思うときもあった 雲は きれいなあ きょうはそう思った *親水公園から、正午の空を撮った。
まったく個人的な理由だが、私は所謂「統合失調症」に深い関心を持っている。「芦屋芸術」のブログにもヤスパースやビンスワンガー、ミンコフスキーのこの病に関する論文の読書感想文を書いた。また、周知のとおり、ヘルダーリンやスト
雲は 空に住み 人は 地に住んでいる *写真は、朝九時過ぎ、親水公園の木陰から、空と、雲を、スマホで撮った
空は ひとりぼっちなのに たくさんの雲を 受け入れている とても不思議だった *写真は、近所の親水公園で。炎天下の真昼、木陰から空を撮った。
昨夜の七時四十五分から八時半まで、近くの芦屋浜で久しぶりに花火大会があった。このところ、毎年恒例だった花火大会がコロナで中止になっていた。 暗い空で破裂し散乱する豪華な火花を、道路の脇に座って、私は見あげていた。
体は冷たくなっていた。 先ほどまではまだガタガタ震えていたのだが、ぴたりと静止したまま、カチカチ固くなっていた。また、絶え間なく刻む音がした。それは時計の秒針ではなく、刃物に似た鋭い先端がカチカチ固まってしまった体を
雨中の食後、小半時くらいして、カアカアは我が家のウッドデッキまで遊びに来ました。きょうは亡妻えっちゃんの八年目の命日です。私は仕事を休んでいました。雨風をいとわず、カアカアは足を運んでくれました! えっちゃん、カアカア
強い風雨の中、午前十一時半ごろ、カアカアが来た。吹き飛ばされそうな傘を手に、庭の食卓に彼のご飯を置いた。うれしそうな眼でじっと私を見つめながら、顔を上下させて、彼はそれを食べていた。
本日未明、三時過ぎに起床。表紙から作品、編集後記まですべてを見直し。若干の修正をして、「芦屋芸術十五号」の編集・校正を完了。ワードの原稿をPDFに変換して印刷会社に送ればもういつでも本に出来る。 ただ、七月に入って急
ハイネの「ドイツ古典哲学の本質」で民話について言及されていたことは既に私はブログに書いた。また、それに触発されて先日読んだ岩波文庫の「日本昔ばなし」全三冊の流れの中で、さらに日本の民衆の考え方・感じ方を学ぼうと、この本
商店街に来て気づいたことがある。 商店街には人気がない、誰もいない。さまざまな店が並んでいるが、看板が見当たらない。店名がわからない。何を営んでいるのか、どんな商売をしているのか、そもそも店を開いているのかどうか、ま
「芦屋芸術十五号」を出版します。 発行予定日は九月二日です。 作品は以下の三篇です。 ・カアカアと、このひとときを(続) ・原始の領域から ・暗中を模索する その4 作品は
明日の予定だった庭の池の掃除を、今日することにした。明日は近所の親水公園の花壇の手入れ。おそらく十時前後からお昼の十二時を過ぎるだろう。この暑さではとても池の掃除まで手が回らない。手を出すと、倒れるかもしれない。熱中症
山中従子さんから詩誌が送られてきた。 「詩的現代」(第三次)第41号(通巻) 編集・発行 詩的現代の会事務局 この詩誌は、三十一人の作家で詩作品五十一篇、詩誌評一篇、評論一篇、エッセイ二
工場街の一角にある事務所から私は電話をしていた。 「あら、わざわざ電話してくれたのね。うれしいよ」 「どこへ行けばいい?」 「前のところ。<コクサイ>まで来て。夕方五時半ごろ、そこで待ってるわ」 おかしな話だが、携帯
いつものように、けさ、庭やそれに面した歩道を箒でキレイにした後、亀の池の掃除にとりかかった。先週の日曜日からちょうど一週間たっていた。 掃除が完了すると例のごとく、しばらく亀と遊んだ。庭を探検するのが大好きな彼は、先
六月五日以来、三日か四日に一回、妻のカアカアだけが一人で我が家にやって来る。もう甘えた声を出さない。無言で、辺りの様子をうかがっている。急いでご飯をほおばり、以前のようにオカワリを催促しないで、あわてて飛び去って行く。
カアカアは決して鳴かない。ウッドフェンスの上からじっとダイニングルーム側のガラス戸を見つめている。私が彼を見つけるまで、一声もあげない。 きのうの朝などは、向かいの家の庭から我が家の方へ歩道を無言で小刻みに移動しなが
久しぶりに豆腐が食べたくなった。 豆腐といえば、もう六年前に亡くなってしまったが、ジャックがとても好きだった。そもそも、八年前に亡くなった私のワイフがプリン代わりにそれを彼のデザートにしていた。彼に過剰な塩分を与える
引き続きこの本を読んだ。 「日本の昔ばなし(Ⅲ)」 関敬吾編 岩波文庫 2002年8月26日第52刷 これで全三冊を読み終わった。今回は、有名な「一寸法師」、「浦島太郎」、「さるかに合戦
亀が住んでいる我が家の庭の小さな池にメダカもいっしょに飼ってみよう、先日そんな文章を私はブログに書いた。するとさっそく、清位裕美からメダカの絵が四点、メールで送られてきた。なかなかステキなのでそのうちの一点をご紹介する
けさ、前から気になっていた庭の鉢に生えた雑草を抜いて、その勢いで池の掃除を始めた。掃除をやっている四十分前後の間、亀は庭をウロウロして楽しんでいる。どこかに入り込んでしまうと行方不明になってしまうし、それよりも、道路に
けさ七時ごろ、玄関ドアを開けると、階段下の隅っこでカアカアが私を見上げていた。 私はきょうも三時半ごろ起きると、長男と私の朝ご飯を作ったり、パソコンでニュースを見たり、本を読んだり、それから、昨夜の酒が抜け落ちてスッ
六月になって、夜明けはいよいよ早くなった。朝の六時半だと辺りはもうすっかり明るくなっている。我が家のウッドフェンスに止まっているカアカアも、ダイニングルームのガラス戸越しにハッキリ見えた。 きょうは朝から洗濯をして九
松川紀代さんから詩誌を送っていただいた。 「オリオン」38号 編集人 松川・東川 2022年6月15日発行 この詩誌には、東川絹子の詩作品七篇、エッセイ一篇、松川紀代の詩作品が一篇、一篇
午後六時半ごろにも来た。 五回目。 カアカアで始まり、 カアカアで終わった、 一日。 とうとい一日だった。 人間のこころと カラスのこころと このふたつをかたく結びあわせることば
本日四回目のカアカアが、午後三時半に来た。我が家のウッドデッキの縁に立って、私とおしゃべりをした。三十分くらいしてた。私はこんな詩を口ずさんで、彼にささやいた。 別れていた君と もう一度 出会うという
きょうは、「カアカアの日」、そう言っていいのではないか。 午後二時、彼は我が家の玄関前で、本日三回目のご飯を催促してくれた。
けさ、九時半ごろカアカアと別れて、いつもと同じ仕事を事務所ですまし、午前十一時半ごろ帰宅すると、我が家の門前で彼が立っていた。私をじっと見上げている。カアカア、君はお昼前まで私の帰りをずっとここで待ってくれたのか。
今年の四月十九日に出版した「芦屋芸術十四号」に、私は「カアカアと、このひとときを」という作品を発表した。この作品は二部で構成され、第一部は「カアカア、帰らず」という題になっていた。 私は我が家の庭に遊びにやって来るカ
永井ますみさんから詩誌を送っていただいた。 「現代詩神戸」277号 編集・校正 永井ますみ・田中信爾・今猿人 2022年6月10日発行 この詩誌は、十九人の同人が発表した三十篇の詩と一篇
詩誌のすべての文章を自分一人で書いている、といって、言うまでもなく他の作家の「引用文」は別ではあるが、その「引用文」を選別したのは自分であってみれば、文章全体の流れの出どころは、ただ一人の「自分」に帰するのだろう。 &