芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

永井隆の「長崎の鐘」

 この著作も、原爆の被爆者が書いた他の所謂「原爆文学」と同様に、片岡弥吉の序文によれば、既に一九四六年八月に脱稿していたが、占領軍司令部の発行差し止めにあう。その後、一九四九年一月、日本軍が行った「マニラの悲劇」を付録としてつける条件で、日比谷出版から発行された。

 

 「長崎の鐘」 永井隆著 発行所サンパウロ 2018年8月15日初版21刷

 

 この著作は被災後、時を移さず書かれているため、被災直後の状況や、医師としての著者の救護活動が眼前に浮かぶように、生き生きと筆写されている。とりわけ、八月十二日から拠点を移して三ッ山に開設した救護班の活動の報告の中で、この著作の核心になる出来事が表現されている。

 それは八月十七日の出来事である。……神国不滅の信念を持っていた著者は、連合国軍が上陸すれば竹槍をもってしてでも闘う覚悟でいたが、原子爆弾によってあえなくその信念は粉砕された。原子爆弾と闘う竹槍を想像したのである。そして、八月十五日の無条件降伏、ポツダム宣言全面受諾。著者は虚脱感に打ちのめされ、医療活動を放棄し、何をする根もなくなっていた。十七日、朝食を終わるとごろごろ転がって、ボンヤリしていた。その時、著者を新生にうながしたこの出来事。少し長くなるが、引用しておきたい。

 

 患者から迎えが来た。国敗れて何の患者ぞや。今日は一億が泣いているのだ。一人や二人の患者の生死が問題になるものか、そんな患者を助けたところで、今さら日本が立ち上がるものじゃなし。断れ、断れとばかりすげなく断ってしまう。今日はみんなむかむかして、何かあれば喧嘩を吹っかけたくなっている。

 使いの者は、ああそうですかと力なくいい、すごすごと帰っていった。私は寝転んだまま、そのさむざむとした後ろ姿が茗荷畑の中を遠ざかって行くのをじっと見送っていた。

 私はむっくり起きなおり、豆ちゃんに今の使いの人を呼び返してくるように頼んだ。心機は一転した。一人の尊い生命こそ助けねばならぬ。国は敗れた。しかし傷者は生きている。戦争はすんだ。しかし、医療救護隊の仕事は残っている。日本は滅んだ。しかし医学は存在している。私たちの仕事はこれからではないか。国家の興亡とは関係のない個人の生死こそ、私たちの本務である。敵味方の区別は、本来赤十字にはないのである。日本が個人の生命をあまりに簡単に粗末に取り扱ったから、こんなみじめな目にあったのではないか。個人の生命を尊重し、ここに私の立場をつくる一つの礎石があるのではあるまいか?(本書112頁~113頁)

 

 また、この著作のすぐれた特徴として、次の点を指摘しておかなければならない。すなわち、著者は放射線医学の研究者であるので、当時の原子物理学にも精通している。従って、原子爆弾とは何か、それによっていかなる傷害が生じるのか、さらに放射能による原子病とは何か、その治療法は?……こういった問題にまで踏み込んで、誰にでもわかりやすく説いている。

 最後に、ふたつの問題に言及しておきたい。

 第一の問題。著者は、百四十三頁でこう言っている。「原子爆弾が浦上に落ちたのは大きなみ摂理である。神の恵みである。浦上は神に感謝をささげねばならぬ」

 この考え方にしたがって、浦上天主堂の合同葬に信者代表として読みあげる原稿「原子爆弾合同葬弔辞」(143~148頁)を著者は書いている。つまり、長崎に投下された原爆は神の恵みである、この原爆で昇天した浦上の信徒八千人は殉教者であり、われわれ残されたものは殉教に値しない、まだこの世で罪を償わなければならない罪人である。われわれはこの世で、自分の如く隣人を愛して、戦争を絶対放棄して、神に祈り、愛の掟に従って生きねばならぬ。

 おおよそこのようにボクは著者の言う「神の恵み」を理解したのだが、無宗教のボクにはこれを論ずる資格はない。この著者の言葉は、狭義に言えば、浦上で殉死したカソリック信徒八千人の鎮魂歌だ、また、残された信徒への癒しの言葉だ、そういって大過ないのではないか。この言葉を、政治的・歴史的に批判するのは、一見常識にかなうようであり、しかし、そういった安易な発想は、将来宗教を迫害する可能性があるのかもしれない。この点、細心の注意が必要だと、ボクは思う。

 第二の問題。それは、武力としての原子爆弾の否定、逆に、平和利用としての原子力の肯定、著者が主張しているこの問題である。現在でも、未解決だと思う。この問題に関しては、後日、ボクなりに再考して、ブログに書いてみたい。