芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

竹西寛子の「管絃祭」

 きめこまやかな文章を書く人だなあ、本を閉じて、まず、そんな溜息をついた。
 見渡せば、原爆投下された広島の八月六日を境にして、時をさかのぼり、あるいは、現在に向かって流れる時空に、さまざまな生者と死者が入り乱れながら、あわれ深い姿や声が浮かんでいる。

 「管絃祭」 竹西寛子作 講談社文芸文庫 

 この小説は、一九七八年七月、著者四十九歳の時に発表されている。広島で原爆投下されたのは著者十六歳で、あれから三十年余りの歳月を経て、この作品は世に出た。ボクは、この著者の作品では、もう大昔と言っていいが、西宮の図書館で「式子内親王・永福門院」一冊を読んだきりで、数十年後、この本を読んだ。世に「原爆文学」と言われている主な作品を読もうとして。
 さて、この「管絃祭」は、書名からも憶測が出来ようが、ボクが今まで読んだ所謂「原爆文学」とは、いささか趣きが異なっていた。
 ここでは、「原爆」は、広島の「原風景」の中核を形成するものとして、この中核の中で、あるいはその周辺で生死する人々を描き、遂に彼等死者たちは、最終章に来て、宮島の「管絃祭」の御座船の船上で再生する。広島の原風景に去来した死者たちは、著者の分身とも言える有紀子という女性の眼前で、「確かに彼等は微笑んでいるようにも、しかし又涙しているようにも見えた。」(本書217頁)。ここにきて、ボクは胸に熱いものを覚えた。だが、果して、「ヒロシマ」は、切実な夢幻劇として、幕を降ろすことが出来るのだろうか?