芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

渡辺広士の「終末伝説」

 この著者でボクが知っていることといえば、わずかである。もうずいぶん昔の話になるが、ボクが二十歳の頃、この著者が翻訳した「ロートレアモン全集」(思潮社、1969年1月10日発行)をよく読んだ。この全集は一巻で完結していて、ロートレアモンの遺したふたつの作品、及びわずかな手紙、出生証明書・死亡証明書が収録されている。おもしろかった。ふたつの作品にうち、「マルドロールの歌」は三回読んだ。「ポエジ」の方は再読した。生来ナマケモノのボクは、外国語をちっとも勉強しないので、「マルドロールの歌」は栗田勇の翻訳でも読んだ。とても興奮した。駒井哲郎の「マルドロールの歌」を主題にした版画も観た。やはり興奮して、金もないのに、二十四歳の時、ボクのワイフ、えっちゃんにおねだりして、版画を一枚買ってしまった! 今でもリビングの壁にかかっている。
 ボクの記憶はこの辺りからボンヤリしている。もちろん、言うまでもないが、この著者が所謂「原爆文学」系列の作品を書いているのは、このたび、初めて知った。

 「終末伝説」 渡辺広士著 新潮社 昭和五十三年十一月十日発行

 四百字詰め原稿用紙八百枚余りの長編で、全十章ある。おそらくあらゆる先入観を排除するためだろう、広島を「A」で表現して、作中に「ヒロシマ」という言葉を一切出さない。広島市を「A市」と呼んでいる。また、原子爆弾を「A爆弾」と呼ぶ。従って、この物語は、A爆弾がA市に投下された出来事を、Aタローという男が記述するという形式をとっている。Aタロー、Aは広島の象徴語だから、翻案すれば広島タローという名の男は広告代理店に勤めるコピーライターだ。Aタローの独白をはさみながら、A市の出来事はA爆弾が投下された真夏の八時十五分、日常世界から生き地獄世界に転換する。
 全十章のうち、A市にA爆弾が投下された一日を第七章までAタローは時折独白を交えながら、生き地獄世界を精密に記述していく。気の弱い人なら、途中で嘔吐を催すかもしれない、おびただしい死体と、壊れた生体の世界。
 記述方法は、時系列に切ったA市の平面空間のあちらこちらに散乱する死体や生体の変化する過程を描いて、A爆弾が投下された惨状をいきいきと立体化し、生き地獄の重層的な様相が現れる。そして、その死体や生体のそれぞれの家族関係、友人知人関係、職場関係、学校関係、孤立した外国人部落、それを救援するただひとりの兵士との関係……それらの関係性が明るみに出る時、そこにA爆弾でも破壊できない愛が出現している。
 第八章はその翌日、数限りない死体の処理作業が中心に描かれている。真夏の陽光にあぶりだされ、痛めつけられた人体。まだ呼吸はしているが、あちらこちら腐敗して数えきれない蛆虫が蠢いている耳や口・目・さまざまな傷口。爆圧で粉砕されたガラスが蜂の巣の如く体中に突き刺さっている身体。全身が赤むけになり、顔や腕や背中の皮がズルリとたれさがり、黄色い液汁を滲ませている人。でも、まだ生きているのだ。
 第九章は、敗戦までの残り八日間を素描するが、バタバタ生体が死体に転化していく。この出来事を記述しているAタローは、「死者」というセンチメンタルな言葉を捨てて、端的に「死体」と表現する。注意せよ。A爆弾は、人間を「死者」ではなく、「死体」として物化していく。ほとんど無名のまま、広場に積み重ねられて、野焼きされる。燃料が足りなくて、半焼きで、頭がい骨や骨盤やあちらこちら、肉が残っている。
 最終章の第十章。この出来事の記述者、AタローはA爆弾が投下された日にA市で生まれた孤児である。シトという人にひろわれて成長するのだが、その過程は本書を読んでいただくことにして、とにかく、Aタローは四十年後にこの出来事を書き始め、その翌年、A病(原爆病)を発症して、病院に入院中に最終章を書いている。おそらく、この世とオサラバする前に、A市の終末的出来事を、コレデモカ! 書き尽くして、その言語空間多層体を置き土産にしようとして。
 この作品には、ひとつ不可解なことがある。AタローはA市で生まれて四十一年になるから、四十一歳だろう。その歳でこれを書き上げたとすれば、広島に原爆が投下されたのが昭和二十年八月六日だから、昭和六十一年にこの作品は完成したことになる。だが、「終末伝説」の奥付を見ると、昭和五十三年十一月十日発行となっている。Aタローが書き上げた時、既に八年前にこの作品は完成して発売されていた。
 ちょっとしたギャグだが、読者よ、著者のその意図は如何?