芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

佐多稲子の「樹影」

 この作家の作品には、不勉強なボクは接したことがなかった。過日、福田須磨子の「われなお生きてあり」(ちくま文庫)を読んだ時、解説を書いていたのがこの作家で、初めて文章に接した。また、福田須磨子が「われなお生きてあり」を書くべく叱咤激励したのも、この作家だと知った。

 

 「樹影」 佐多稲子 講談社文芸文庫 2002年12月2日第8刷

 

 この作品の初版は、一九四五年八月九日、長崎に米軍のB29が原爆を投下してから二十七年後、一九七二年九月に講談社から出版されている。

 周知のとおり、長崎の爆心地付近で被爆はしなかったが、救援活動などで爆心地から半径二キロ前後以内へ入った人々、あるいは黒い雨に打たれた人々は、放射能に汚染され、敗戦後、原子病で死の恐怖を背負うことになる。彼等には、敗戦しても、終戦はなかった。

 この作品は、原子病で徐々にからだが破壊されてこの世を去っていく画家と華僑の女の愛の物語である。作品のモデルになっている男女は、この作家の友人だった。長崎生まれではあるが、その当時東京に住んでいて被爆体験のないこの作家は、所謂「原爆文学」を書くことはおこがましくて出来ない、そう考えていた。だが、原子病による友人たちの不条理な死を悼み、優しい人柄だった画家の遺書ともいえる荒涼とした絵を見つめて、長崎の被爆者の悲劇を書く決意をする。

 長崎の風景、時代背景、その中に生きる人々、とりわけ余りにも純粋に愛しあった画家と華僑の女の心のありようを、きめこまやかに描ききっている。未読の方は、ぜひ手にして欲しい。