芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

ロベール・アンテルムの「人類」

 先日、ホルヘ・センプルンの「ブーヘンヴァルトの日曜日」を読んでいて、ブーヘンヴァルト強制収容所よりもその付属施設の労働収容所の方がさらに苛酷だった、そんなふうに書かれていた記憶が残っている。おそらく、この著者が収容され

「芦屋芸術」10号を出版します!

 「芦屋芸術」10号を7月19日に発行します。この日は、ボクのワイフ、えっちゃんが亡くなって六年目、日本の仏教で言えば七回忌です。今回は、よくよく考えた末、共同執筆者にお願いしなくて、初めてボクの作品だけでやります。作品

春夜、水の夢

ずっと雨が降らなくて からだがすっかりひからびて バケツに水を満たし 頭から浴びた   頭の中に 水草が生え 水面に おぼろ月が浮かんでいる   からだはずいぶん水を吸った    

黒い情熱が、また

あの公園の 雪の中から 黒い情熱が また 歩いて来た   あの日から 狂うべきものは そして 狂った   内部から轟音がした   歯車が崩れていた  

ホルヘ・センプルンの「ブーヘンヴァルトの日曜日」

 ナチスドイツの製作した人間破壊装置、いわゆる強制収容所を中心にして書かれた作品の中では、これは極めて異色な物語だった。    「ブーヘンヴァルトの日曜日」 ホルヘ・センプルン著 宇京頼三訳 紀伊國屋書店 19

黒いフスマ

 ボクと妻は南側にある兄夫婦の部屋を出て、隣に移り、フスマを閉めた。振り返ると、ボクラの部屋を挟んで、北側の部屋の畳にバケツが置いてある。そして、左の柱の陰から、前傾した父の首から上だけがヌッと突き出し、床を見つめている

ツェラン、あるいは、ビューヒナーの「レンツ」

 先日、「パウル・ツェラン詩文集」(白水社刊)を読んでいて、ずいぶん昔、ボクが二十代の時に読んだビューヒナーの「レンツ」をもう一度読んでみたくなり、確かまだ手もとにあったはずだと思い、本棚を探した。それは二階の本棚で発見

黒い指

実際は 一時停止して 不意に飛び出した その赤い穴に 肌色の軟膏を塗って 再起動する方がいい あるいは この不具合を完璧に修正するためには その赤い穴に 黒い指を差し込み 埋め込んだままその指を切断して 断面に肌色の軟膏

黒い虫

過ぎ去っていたあやまちの時間 もうすっかり忘れ去っていた過失 すなおに謝罪しなかった汚点 自分が義しいんだと人を裁いた出来事 けれど そんなあなたの罪を罰するために きょう このいまわのきわに おびただしい黒い虫が ぞろ

「プリーモ・レーヴィ全詩集 予期せぬ時に」を読む。

 胸の中には寒さと飢えと虚無しかない  心の中では最後の価値も壊れた。(本書「ブナ」から、9頁)    この言葉は、観念的な虚無の世界を描写したものではなく、ナチスドイツによって製作された人間破壊装置「アウシュ

「パウル・ツェラン詩文集」を読む。

 ボクはまだ二十代前半だったか、もう五十年近い昔の話になってしまうが、梅田の旭屋書店でこの著者の本を立ち読みした記憶がある。「迫る光」という書名の詩集だったと思う。何度か立ち読みした。言葉が発光しているのか、「痛いくらい

ボクの二十四歳の時の作品「月光と白薔薇と」を、改稿しました。

 ぼくが二十四歳の時に書いた作品を改稿しました。    「月光と白薔薇と」 山下徹著     一九七四年五月七日 初稿                 発行日 一九七四年五月二十八日 ガリ版二十部       

ボクの二十四歳の時の作品「月首」を、改稿しました。

 ボクが二十四歳の時に書いた作品を、このたび改稿しました。    「月首」 山下徹著       一九七四年二月十七日 了              発行日 一九七四年五月十五日 ガリ版二十部         

くらやまこういちの「詩集生きっちょいさっさ」

 この詩集の書名は「生きっちょいさっさ」となっている。この言葉は著者の生活する都城地域の方言で、「生きている間」、と言う意味である(本書57頁参照)。    「詩集生きっちょいさっさ」 くらやまこういち著 本多

ジャン・アメリーの「罪と罰の彼岸」

 なんとも言いようがない本に手を出してしまった。それでも勇を鼓して読書感想文めいたものを、ボクは書こうと思う。  取り敢えず、理解しやすいところから、この本の中へ侵入しようではないか、と言って、理解しやすいのかどうか、余

黒いフタ

狂気のフタが開いた 幾千のアリが出た 幾万のウジが出た 幾億の死体が出た 早逝した父が 精神を病んだ母が ギャンブルに溺れた兄が すい臓ガンで死んだ妻が 蒲団の上で仰向いているボクが 死体の山からヌルリと出てきた 足もと

ベンジャミン・ジェイコブスの「アウシュヴィッツの歯科医」

 一九一九年にポーランドのヴァルテガウ地方のドブラに生まれた著者は、一九四一年から一九四五年に解放されるまで、おおよそ四年間、ユダヤ人だという理由だけで強制収容所を転々する。その間の著者自身が経験した生活をこの書は描いて

ボクの二十三歳の時の作品「ハンス・フアプーレ」を、改稿しました。

「ハンス・フアプーレ」 山下徹著 発行日 一九七三年冬 ガリ版二十部                      二〇二〇年二月十六日 改稿    この作品も前作「刻印」と同様、ボクのワイフ、えっちゃんがガリ版で

ボクの二十二歳の時の作品「刻印」を、改稿しました。

 「刻印」 山下徹著 一九七二年四月十七日発行 ガリ版20部            二〇二〇年二月二日 改稿    この作品は、ボクが二十二歳の時に書いたもので、ボクのワイフ、えっちゃんがガリ版で本にしてくれた

ケルテース・イムレの「運命ではなく」

 この書は、アウシュヴィッツで十四歳の少年が十六歳と偽ってガス室送りを免れ、強制収容所で労働者として一所懸命に苛酷な状況に適応して生き抜くけなげな姿が描かれている。    「運命ではなく」 ケルテース・イムレ著

フランクルの「夜と霧」

 この本の著者は、ボクの心に極めて強い印象を残している思想家の一人である。というのも、個人的な話になってしまうが、ボクは一九六九年四月二十八日の沖縄デーで、反戦運動に参加して、新橋・有楽町間の線路上で機動隊に逮捕され、二

アンネ・フランクの「アンネの童話」

 この本を、十四歳くらいの少女が書いたなんて、誰も信じないと、ボクは思う。その上、ナチスドイツが人間とは認めないユダヤ人を収容所に送り、労働能力のある人間は強制労働、その能力のない人間、例えば老人や子供や病人や強制労働を

プリーモ・レーヴィの「溺れるものと救われるもの」

 この歳になってボクにもハッキリわかってきたことは、人はみなそれぞれ独自で一回限りの時間を生きているのであってみれば、他人の生きている時間を理解することは、トテモ困難な事柄だ、逆に言えば、この「ボクの生きている時間」を他

「えっちゃんへの手紙」を書いた。

 おとついからきょうまで、ボクはほとんど制御不能のハイ状態になって、一篇の詩を書いた。それは「えっちゃんへの手紙」という詩で、四章百二十行だった。この詩は、えっちゃんの連作の最後を飾る言葉だった。書名は、「えっちゃんの絵

「えっちゃん祭」が出来ました!

 やっと「えっちゃん祭」を書き上げました。この作品の端緒は、ボクのワイフ、えっちゃんが亡くなる一年前に書いた「東京マザー」から始まります。「東京マザー」は、えっちゃんの写真とボクの文章のコラボで、「芦屋芸術」の別冊として

プリーモ・レーヴィの「休戦」

 「出発したときは六百五十人いた私たちが、帰りには三人になっていた」(本書352頁)。いったい二年にも及ぶこの旅はどのような日程だったのか? どのような施設への旅だったのか? そして、また、何故このような旅に出かけたのか

ルドルフ・ヘスの「アウシュヴィッツ収容所」

 正月早々、重い話をかかえこんだ。……というのも、ボクも長い人生の中で、激昂の余り、他人を絶対否定しようとする傾向になったことは一度ならずある。しかし、そんな状態はいつまでも続かない。ボクの場合、怒りが冷めてくると、たい

「えっちゃん幻想」が出来ました!

 けさ、サイゼリアの裏の波止場まで足を運んで、初日の出を見た。毎年、芦屋浜で仰いでいるが、いま、高潮対策で護岸工事をしているため、芦屋浜は立入禁止になっている。  東の低い空には雲が出ていて、雲上に太陽が出たのは日の出時

すべてをやりとげた!

 去年の年末、ボクは<来年やります!>と叫んで、三つの誓いを立てた。  <そのⅠ>えっちゃんが亡くなってから書き続けている「ふたりだけの時間」という物語を完成させます。  さて、これが第一の誓いだが、本年八月十五日、ボク

シュロモ・ヴェネツィアの<私はガス室の「特殊任務」をしていた>

 この本の著者は、子供の頃、父が理髪店をやっていたので、バリカンの使い方を知っていた。この能力があるため、アウシュヴィッツ強制収容所で囚人の毛を剃る手伝いをするのと引き換えに、ひとかけらのパンにありつくことが出来た。著者

アンネ・フランクの「アンネの日記」

 この本はおそらく、十代の時に読んだ人が多いだろう。感受性豊かだと言われている「青春時代」に読んでこそ、心に残る一冊になるのだろう。だが、ボクはこの歳になって、すなわち七十歳になって、初めてこの本の扉を開いた。 &nbs

十三日の金曜日、その思い出。

 思い出と言っても、まだ数日前の話だが、この歳になってしまうと、未来でさえ、既に思い出だった。  やはり、この十二月十三日の金曜日、一般的に言えばとても不吉な夜ではあったけれど、四人の男、それは山村雅治、北野辰一、國分啓

師走の満月から

 きのうは曇っていて、口惜しい思いをした。でも、きょうは晴れていて、夕方、六時頃、南西の空に金星とその右側に土星が浮かんでいた。きのう、彼等が最接近する日だったけれど。  北西にベガ、西にアルタイル、頭上にデネブ、夏の大

プリーモ・レーヴィの「これが人間かーアウシュヴィッツは終わらない-」

 この著者は、イタリアの化学者ではあるが、第二次世界大戦中、ナチスのトリノ占領に対して反ファシズムのレジスタンス活動を始める。だが、一九四三年十二月十三日、スイスとの国境沿いの山中で国防志願軍(ファシスト軍)に逮捕され、

今年は、原爆文学を読んだ。

 今年は、といってもまだ一ヶ月近い時間を残してはいるのだが、読書に関して言えば、振り返ってみれば、所謂「原爆文学」を中心にした言語体験だった。今年の自分自身を総括する意味で、いったいどんな「原爆文学」を読んできたのか、煩

「芦屋芸術九号」が出来ました!

 やっと「芦屋芸術九号」が出来ました。「やっと」というのも、四年前の六月十一日に八号を出したきり、ボクの個人的な事情で、休刊状態でした。    「芦屋芸術九号」 著者=藤井章子、山中従子、山下徹 発行所=芦屋芸

國分啓司の「おむすび坊や」を読んだ。

 先夜、北野辰一の紹介で國分啓司を交えて三人で飲み食いを楽しんだ席で、國分から彼の作品の原稿のコピーをいただいた。「おむすび坊や」という作品だが、いい作品だった。未発表作品なのでこれ以上言及するわけにはいかないが、こんな

ヴィーゼルの「夜」

 この本の著者は、トランシルヴァニアのシゲトという小都市でユダヤ人の商人の息子として一九二八年九月三十日に生まれている。一九四四年にナチスドイツはこのシゲトに二つのゲットーをつくり、シゲトに住むすべてのユダヤ人を隔離し、

小倉豊文の「ヒロシマー絶後の記録」

 高村光太郎はこの本の序でこんなふうに書いている。   「この記録を読んだら、どんな政治家でも、軍人でも、もう実際の戦争をする気はなくなるであろう。今後、せめていわゆる冷たい戦争程度だけで戦争は終わるようになっ

「芦屋芸術」の夜

 昨夜七時頃、阪神芦屋駅前の喫茶店「西村」でボクは北野辰一と落ち合った。彼は友人の若い男を連れていた。若い男、國分啓司という男だが、来年発行する「芦屋芸術十号」に寄稿したい、とそういうことで、ボクラ三人はあれこれとりとめ

金井利博の「核権力ーヒロシマの告発」

 平和運動を持続させる、その運動を日常生活の一部として一日一日を送る、それは至難のわざであろう。ボクなどは、平和で楽しい時間を過ごすのはとても好きだが、民衆をかえりみない国家権力によって抑圧されたり破壊されたりした人々の

しし座流星群の話

 きょうは小雨が降っているか、少なくとも曇っているだろうと思っていたが、午前四時頃に起きて、念のため玄関を出て夜空を見上げた。天気予報を裏切って、驚いたことに、下弦に近い月とオリオンがボクの眼前に輝いていた。  きょう、

蜂谷道彦の「ヒロシマ日記」

 先日読んだ福永武彦の小説「死の島」では、広島の原爆で被爆した主人公の女性は自分の被爆体験から一歩も外へ出ることが出来ず、心の内部では破滅した広島の市街を原風景にした虚無の世界に住み、遂に同居している女友達を道連れにして

福永武彦の「死の島」

 ボクは初めて福永武彦の小説を読んだ。何故今まで読まなかったかという理由は後ほど書くことにして、読むに至った理由は、今年の一月からずっと読み続けている所謂「原爆文学」のおかげで、この小説を読むことが出来た。  

リストカットは、止めることにした。

 きのう、午後一時、阪急芦屋川北側の小公園でボクラは落ち合った。彼、北野辰一はジーパンのラフな姿で現れた。二日前に誘われて、これから彼の親友、山村雅治が主宰する「松山庵グレデンザSPレコードコンサート」へ行く約束をボクは

金曜日の夜は、北野辰一と飲んだ。

 午後四時前に、阪神芦屋駅前の喫茶店「西村」で北野辰一と落ち合った。あらかじめフェイスブックで彼の風貌は確かめていたので、すぐに彼だと知れた。  コーヒーを飲みながら、なんだか話がすみやかに転々して、結局、いったい何を話