芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

脳が走っている

 距離を縮めることは出来なかった。高層ビルとはいっても、それはとてつもない高さだった。百階建てどころではない。二百階か、あるいは三百階か、いや、それ以上ではなかったか。その距離を縮めることが出来なかったのだ。

 視線は屋上にはなかった。屋上をはみ出していた。超高層ビルの谷間の上空に浮かんでいた。さらに正確に表現するならば、視線はビルの谷間の上空に固定されているのだった。何故なら、遥か彼方にかすんでいる地上を観察することは可能ではあったが、地上まで降下することは不可能だった。従って、繰り返しになるが、視線は空中に固定されてその位置から下方を俯瞰できるが、一寸たりとも移動できなかった。

 それならば、何故、超高層ビルが広大な渓谷へと変化したのだろう。どこまでも数々の山頂と深い谷間が展望されている。雲は見えなかった。快晴なのか。といって全体は薄い灰色に覆われている。ならば、雲と山頂の間に視線は固定されているのかもしれない。どこまでいっても山頂と谷間が続くのだった。

 不思議だ、私はそう呟いていた。上空に固定された視線には、いつしか高速に回転する風景が眺望されていた。既にそこには超高層ビルも山頂も谷間も存在しないのだった。洗濯機の中を覗くような、高速回転物体だけが眼前を疾駆していた。そうだ。確か私は昨夜、ベッドに横たわったはずだ。だとするならば、当たり前の話だが、私は仰向いたまま先程からじっと天井を見つめていた。だから、つまり、天井が回転しているのだ! 天井が回転して、超高層ビルや山頂や谷間に変化し、ついに洗濯機の内部のごとき世界へと展開したのだった。待て。違う。そうじゃない。まさかそんなはずはない。これは天井ではなく、脳が回転しているのだ。おそらく脳の前頭葉あたりだろうか。中枢部分だろうか。まだ原因する細部まで特定はできなかった。しかし私は確信してひとり笑いを浮かべ、自らにこう言い聞かせていた。ごらん。脳が走っているのだ。一心に走り続けているのだ。