「わたし、有島武郎が、好きなの……」 賑やかな夜の街をならんで歩いている時、不意にはしゃいで、Aは有島武郎の作品「或る女」についてまくしたてた。 「ボクは、何故か、今まで一度も読んでいないけれど……」 「小さき者へ・
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偶然、シェンキェーヴィチの「クオ・ワディス」を読む。
「今、ショーロホフの『静かなドン』を読んでいます。昔、えっちゃんが読んでいた本だが、彼女を偲んで」 「おもしろい?」 「まだ、読みかけたとこだから……」 「シェンキェヴィチの『クォ・ヴァディス』って、おもしろいよ。ネロ時
「吉田一穂全集」第三巻を読む
第三巻は、この詩人の童話作品が収録されている。第一巻から読み始め、この第三巻に至って、彼のすべての作品を読み終えたことになる。 「定本吉田一穂全集」第三巻 昭和58年1月20日発行 小澤書店 もう少し詳しくみてみよ
「逸見猶吉詩集」再読
この詩人の故郷、谷中村は水没した。 周知のとおり、足尾銅山鉱毒事件に対して田中正造が中心となって村民と共に公害運動を闘っていたが、鉱毒を沈殿させるという名目で政府が谷中村に遊水地を作る案が出たため、一九〇四年七月三〇
心が明るくなる
断崖だった。…… 未明、いちめん、寝起きの頭のようにぼさぼさした荒地を歩き続けていた。あちらこちら、まばらな枯れすすきが、風もない無音の状態で、ふにゃふにゃ、ふにゅふにょ、巨大な糸みみずになって蠢いていた。 眼下は
もう一度できそうな気がする
毎朝 花の水替えをしながら ひとりごとを 言ってる なんだか もう一度 えっちゃんと お話しができそうな 気がする
オリオン
おそらく午前四時半頃だろう、十月に入って、朝刊を取りにいくため、玄関を出て門扉の郵便受けまでのあいだ、まだ夜明け前の上天にオリオンが輝いている。 もう六十年余り昔の話だが、戦後まもなく荒地に建てられたバラックに近い我
「吉田一穂全集」第二巻を読む
この本は、四篇に分けて構成されている。すなわち、「試論篇」、「随想篇」、「雑纂」、「草稿」。 定本「吉田一穂全集」第二巻 昭和57年12月20日発行 小澤書店 もう少し詳細に紹介すれば、「試論篇」は、二冊の単行本と
ショーロホフの「静かなドン」を読む
「これって、とんちゃん向きじゃないと思う」 もう四十年余り昔のこと、三十歳になったばかりのえっちゃん、これはボクのワイフの通称だが、ボクのような人間、つまり「とんちゃん」はこの本なんて読まなくっていい、そう言い切って、
芦屋浜・正午
十月だというのにまるで初夏のような青空と雲の下、ボクは堤防の階段に座って海を見つめていた。えっちゃんが亡くなって四年余りたって、初めてこの階段に独り座ることができた。 正午は 頂点から 青色の球を描き 海は 太
夜の詩
夜中に眼がさめた 誰かが唄をうたっていた 綺麗な声だった こんな言葉が流れてきた 愛が消えたら 心が消えた
風邪の朝に
めまいがして 立ちくらみがして 久しぶりに仕事を休んだ でも すっかり日課になってしまった 花の水替えがトテモ心配になり ふらふらしながら ダイニングの東窓の飾り棚にならんでいる えっちゃんの遺影と骨壷 ジャックの骨壷と
まな板と包丁
いのちが いのちを料理して 台所に立っている 絵皿に盛られた 腹や手足
芦屋浜まで
昼さがり 海を見て 帰ってきた 浜辺には ジャックと えっちゃんが いた
「ヨブ記」、すべてを失った人の言葉。
昔から、神を信じたら幸福な生活を送ることが出来る、宗派は違っても、行き着くところそれに類する宗教が多々あるのではないか。この考え方からすれば、結局、神は人間を幸福にするために存在するのであって、よくよく胸に手を当てて考
Uの死
九月三日、月曜日。Uは息をひきとった。 彼は、芦屋市立山手中学校在学中、ボクと同期生だった。 中学三年生の時、ブラスバンド部で小太鼓を叩いていた彼、クラシックギターを弾いていたボク、このふたりでロックバンドを組んだ
歩行者
流れようとするこころを とどめるすべもなく 正午 炎天下を歩いている
「吉田一穂全集」第一巻を読む
ボクは、この本を三十三歳の時に手にした。おそらくボクの十代から三十代半ばくらいまで、芥川賞や直木賞を競い合う小説世界の喧騒から遠く離れて、ひっそりこんな本を開くのが、芸術作品の近くに住んでいる、そんなふうに感じていた若
心がグラグラしている時は……
誰にだって 心がグラグラしている時が あります そんな時は 眼をとじて まるで月のひかりのような 君が一番愛している人の笑顔を 荒れ騒ぐ夜の心の海に 浮かべてください
宇野弘蔵の「価値論」、「価値論の研究」
もうずいぶん古い話だが、ボクは二十歳前後から二十代半ばまでの五、六年間、経済学の本をよく読んだ記憶がある。 経済学といっても、マルクスの「資本論」と、その理論を基礎にして厳密な社会科学としての経済学を構築した宇野弘蔵
死夢
この頃 深夜から未明にかけて 死体になる夢を見る 変色して 徐々に腐り ただれ ねとねとして 汁状に 眼 耳 鼻 口 頭のさまざまな穴からうじ虫が這いずりだし あるいは 首や下腹部の皮を破って うごめいている 内部では
移動
足の裏に眼がある。闇の中でも豆電球のように光り、時折まばたきする。右足と左足の裏に一個ずつある。ベッドにあおむけに寝転がってぐっすり眠っているのだが、足の眼はぽっちり開いて、部屋の壁の姿見に映った足の裏を見つめている。
虚空
昔、種々の物質が結合して、仮の男と仮の女が生まれた。彼等はこの束の間の現世で縁あって同じ屋根の下で暮らした。縁とは、愛の異名だった。 四十三年後の未明。仮の女は元の種々の物質に分解してこの世から絶えた。やがて仮の男も
闇の上に
静かに 流れるように 光が 降っていた 横たわるものすべての 闇の上に
滝沢克己の「『現代』への哲学的思惟」
この本の著者は、一九五八年に洗礼を受けキリスト教の信者になっているが、一九三三年、二四歳でドイツに留学し、ボン大学でカール・バルトに学んだことがその発端だ、そう言って決して過言ではないと思う。ただ、ドイツ留学へ出発する
夜の雨
雨もよいする 六月のたそがれ きょうも公園の 花園を歩く 紫 うす紅 白 あじさいは咲き乱れ ゆりの花々が小さな声で もう夜のおしゃべりを始めた 霧雨に揺れる ラベンダーの薄闇に あの人がいる 霊の足音が
星野元豊の「浄土の哲学」
今から四十三年昔、二十六歳の時に夢中になってむさぼり読んだこの本を、ボクはこの歳になってもう一度開き、最終行を見つめて、本を閉じた。懐かしくて胸が震えた。集中した読書をして重たくなったまぶたを休めるため、ベランダに立っ
星野元豊の「浄土」
ボクは二十六歳の時、この本を手にして、感動した。もう四十三年昔の話である。 このところ、十代二十代の頃に読んで、スゴイ! そう思った本を再読している。贅沢な老後の時間である。 「浄土ー存在と意義」 星
ローザ・ルクセンブルクの手紙
きょうが最終回である。今まで、ローザ・ルクセンブルク選集全四巻、資本蓄積論全三冊を学んできた。芦屋芸術主催の「ローザ・ルクセンブルク読書会」第八回最終回の教材は、これである。 「ローザ・ルクセンブルクの
草の実を食べていました
いつも ふたりで歩いた 近所の 公園の ハラッパに 鳥が おおぜい やって来て 草の実を 食べていました つんつん首をあげさげして せわしなく じっと出来なくて ちょんちょん跳びはねて 雲ひとつない青空の下 五月の昼さが
ミニバラ
毎日 水やりをしていたかいがあって えっちゃんが 愛していた 赤いミニバラが ことしも わが家の庭の ウッドデッキの東側を いちめん 彩りました けさ ハサミで一輪切って 赤いグラスに立てて ダイニングの東窓の飾り棚に四
ローザ・ルクセンブルクの「資本蓄積論」第三篇
芦屋芸術の第七回「ローザ・ルクセンブルク読書会」は、マルクスが「資本論」第二巻で論及した社会的総資本の再生産表式に対して、特にその拡大再生産表式に対して、ローザ・ルクセンブルクが真正面から批判した論文を取り扱う。 &n
ローザ・ルクセンブルグの「資本蓄積論」第二篇
前回の読書会で勉強したとおり、人間の労働はいつの時代にあっても、自分の一日の消費手段以上の生産物を生産する。これが人間の基本的な特色で、この土台の上で、人間の文化は形成されている。 さて、ボクラが現在住んでいる資本制
ローザ・ルクセンブルグの「資本蓄積論」第一篇
「人間」という言葉をボクは時たま使うが、おそらくボクだけじゃなく、少なくとも年に一回か二回くらいは誰だって「ニンゲン」とつぶやいたりしてるんじゃないか、ボクはそう思っている。 ところで、いざ、じゃあ、君、「人間」って
ローザ・ルクセンブルク選集第四巻(1916~1919)
虐殺の日が近づいた。信じられない話だが、改良か革命かの政治方針で激しく論争したとはいえ、かつてドイツ社会民主党の同志、エーベルト=シャイデマン一派の両手が、全身が、ローザの血で紅く染められる日が来た。
ローザ・ルクセンブルク選集第三巻(1911~1916)
芦屋芸術の「ローザ・ルクセンブルク読書会」も第三回を迎えた。本日の教材は以下の通りである。 ローザ・ルクセンブルク選集第三巻 現代思潮社 1969年12月25日新装第1刷 (訳者 高橋宏平、野村修、田
ローザ・ルクセンブルク選集第二巻(1905~1911)
一九六九年といえば、もうトテモ古いお話になってしまうが、その頃、マッセンストライキという革命戦略を煽動する日本の新左翼があった。この本を読んでいて、ふとそんな二十歳前後の思い出が蘇ってきた。「芦屋芸術」がローザ・ルクセ
ローザ・ルクセンブルク選集第一巻(1893~1904)
来年の一月十五日でローザ・ルクセンブルクが虐殺されて百年を迎える。一足早いが、「芦屋芸術」としては、ローザ・ルクセンブルクの没後百年の行事として、彼女の遺した文章の「読書会」の開催を企画している。といっても、この「読書
ルカーチの「理性の破壊」
この本を買ったのは十九歳の時で、もうかれこれ五十年近く昔のお話。おそらく最後まで読もうとはしたのだろうが、途中で投げ出してしまった。ボクの悪いクセで、八割九割がた読み終わっていても、おもしろくない、そう思ったら最後、そ
世界の詩集第十一巻「世界恋愛名詩集」
この詩集は二千年以上にわたる西欧文化圏の詩人七十七名、計百二十五篇の恋愛詩のアンソロジーである。収録されている詩で最も古い詩は、ギリシアの詩人イビュコスの「春されば」で、おおよそ紀元前六百年ぐらいに成立した作品である。
ルカーチ著作集第二巻「小説の理論」
この本をボクは十九歳の時に手にした。何故、手にしたか? この当時、マルクーゼも読んでいるから、所謂「フランクフルト学派」に興味を持っていたのか? 確かボクより三歳くらい年長で、フランクフルト学派を口にする男がいたが、こ
世界の詩集第十二巻「世界女流名詩集」
この詩集が「世界の詩集」全十二巻の最終巻である。女流詩人五十四人が登場する。「女に生まれて」、「恋愛と結婚」、「あこがれ・孤独・別離」、「自然ー四季おりおりの詩」、「時と永遠」、「世界の苦悩ー平和への祈り」、以上、全六
ルカーチの「歴史と階級意識」
ボクは共産主義者でもなく、また、現在、革命運動を実践しているわけでもない。だからこの著作をわかった顔をして批評するつもりはまったくない。その上、批評するにしても、ボクのような浅学の徒には意味不明の文章が多く、特に政治上
世界の詩集第十巻「ホイットマン詩集」
かつてボクはこの詩人の作品を一行も読んでいなかった。これと言って積極的な理由はなかったが、彼の本を手にしようとはしなかった。若い頃、所謂「ヒューマニズムの詩」や「説教臭い詩」に余り興味がなかったのだろう。 このたび、
マルクーゼの「ユートピアの終焉」
この本は、一九六七年七月十日から十三日にかけて、ベルリン自由大学において行われた講演、討論を構成したものである。訳者の解説によれば、この講演の行われる一ヶ月ほど前に、官憲のテロルに対する激しい抵抗運動があり、ベルリン自
マルクーゼの「エロス的文明」
この本は、「抑圧のない文明」、つまり現代のユートピアの可能性をフロイトの心理学をベースにして考察している。フロイトによれば、「文明は人間の本能を永久に抑圧することである」(本書1頁)。ということは、「抑圧のない文明」の
世界の詩集第九巻「ヘッセ詩集」
そして すべての罪悪と すべての暗い深淵からの たった一つの 熱望 終極の憩いがみたい そして ふたたび帰ることなく 墓場にたどりつきたい という熱望(「のけ者」第三連、141頁) 訳者星野慎
マルクーゼの「理性と革命」
なつかしい本を書棚から引っぱり出した。ドイツやイタリア、日本がファシズムに支配され、第二次世界大戦が勃発した最中、一九四一年にこの本はニューヨークで出版されている。 「理性と革命」マルクーゼ著 岩波書店
世界の詩集第八巻 「ヴェルレーヌ詩集」
この詩集も三年余り前に永眠したワイフの遺品の一冊だが、ボクは十七歳の時、「角川文庫」(昭和41年11月30日初版)で同じ訳者のものを買い、憑かれたように読み耽った記憶が、懐かしい。 世界の詩集8「ヴェル
「トラークル詩集」再読
ボクは十八歳の時、この詩集を手にした。その時は、没落していく、言葉全体が沈んでいく、そんな印象を受けた。何処へ? わからなかった。この詩人は小舟にのって夜の流れをくだっていくのだが、行き着く先はボクにはわからなかった。