芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

「トラークル詩集」再読

 ボクは十八歳の時、この詩集を手にした。その時は、没落していく、言葉全体が沈んでいく、そんな印象を受けた。何処へ? わからなかった。この詩人は小舟にのって夜の流れをくだっていくのだが、行き着く先はボクにはわからなかった。とにかく、この詩人にとっては、没落していくことが宿命なのだ、そう思った。透明な言葉と腐敗する言葉が重層し散乱していて、わかりづらい詩群の中では、この詩は比較的わかりやすく、青い嘆きの透明感がステキで、ボクは好きだった。

 

    ヘルブルンで

 

 ふたたび夕暮れの青い嘆きのあとをつけてゆく、

 丘にそい、春の池のほとりをー

 とっくに死んでしまったひとたちの影がまるでそのうえで揺れているかのよう

 えらい坊さんや貴婦人たちの影ーもうあのひとたちの花がさいている、きまじめな菫の花が

 夕暮れの谷間で、せせらいでいる、青い泉の

 水晶の波。いともしめやかに、檞の木木は

 死者たちの忘れられた小道のうえで緑をふき、

 金色の雲が池のうえに漂っている。(本書157頁)

 

 ボクが語り始めた詩人は、言うまでもなく、ゲオルク・トラークルのことである。

 

 世界の詩集51「トラークル詩集」吉村博次訳 彌生書房 昭和43年2月29日初版

 

 トラークルの詩はわからないなりに、気にはなっていたのだろう。初めてこの詩集を手

にしてから十三年後、この本を読んだ。ハイデガーの「トラークル論」。

 

 ハイデッガー選集14「詩と言葉」三木正之訳 理想社 1980年7月15日第1版第9刷

 

 さて、トラークルの詩集を初めて手にしてから五十年後、この二週間くらいの話だが、もうすっかり色あせた詩集の頁を何度も開いた。五読も七読もした。また、ハイデガーの「詩と言葉」も一読再読した。すばらしい時間だった。歳月の和音が聴こえるようだった。だが、やはりわからなかった、トラークルもハイデガーも。おそらく、最近読み始めた道元の「正法眼蔵」にも通じるわかりにくさだった。彼等は共通して、この世は腐敗している、そう語るだろう。それが共通認識だろう。ボクももう少し若ければ「わかった顔」をしてそうですそうですと頷いていただろう。しかし、「わかった顔」をするには、もうボクは老い過ぎた。この世が腐敗しているのかどうか、そんなことはもうどちらでもよかった。ボクにはボクなりに、お隣の家にはお隣の家なりに、いろいろうれしいこともあり悲しいこともあるのだろう。率直に言おう。ボクは「体験の絶対化」・「思索の絶対化」・「悟りの絶対化」を恐れる歳になってしまった。