芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

世界の詩集第八巻 「ヴェルレーヌ詩集」

 この詩集も三年余り前に永眠したワイフの遺品の一冊だが、ボクは十七歳の時、「角川文庫」(昭和41年11月30日初版)で同じ訳者のものを買い、憑かれたように読み耽った記憶が、懐かしい。

 

 世界の詩集8「ヴェルレーヌ詩集」橋本一明訳 角川書店 昭和42年3月10日初版

 

 あたりまえの話だが、人は誰しもその生まれた時代を超えて生きるわけにはいかない。ただひたすら、直面した状況に自分なりに対応して、そして、必ず死を迎える。一八四四年にフランスで富裕な家庭の一人息子としてヴェルレーヌは生まれた。一八七一年、二十七歳の時、市役所勤めをしていた彼は革命が起こると、パリ・コミューヌにのめりこむが、激しい市街戦が始まるや、おびえて戦線から逃亡。ヴェルサーユ軍がコミューヌ鎮圧後、今や伝説になったが、十六歳のランボーと出会い、今度は彼にのめりこむ。ランボーにふられ、泥酔して錯乱して、彼に拳銃をぶっぱなし、あえなく逮捕され、二年間の監獄暮らし。愛妻にも捨てられるが、なんとか立ち直って三十六歳の時、彼の代表作といわれている詩集「かしこさ」を出版。やがて詩人としては成功していくが、浪費生活のため破産状態に陥り、四十代で梅毒性の潰瘍を病み、貧困と苦痛のどん底へ。詩を濫作して売文し、娼婦に貢ぎながら面倒をみてもらい、五十歳、ルコント・ド・リールの死去にともない、代って「詩王」に選ばれるが、病状悪化。デカルト街のアパートで愛憎を重ねた娼婦にみとられ、五十一歳で他界。ここに、彼のすさまじい生涯は絶えた。

 ながながと講釈をたれたが、一言で言えば、ヴェルレーヌもランボーもパリ・コミューヌ、つまり「革命の時代」から狂い咲いた余りにも純粋な言葉の花だった。パリ・コミューヌ、わずか七十日間の出来事ではあるが、それは世界史が始まって以来、初めて無産の労働者が権力を掌握した、超現実の顕現だった。

 さて、ヴェルレーヌが日本に上陸した流れを簡単に眺めておこう。

 まず、明治三十八年(一九〇五年)十月、上田敏の「海潮音」にはヴェルレーヌの詩が三篇翻訳されている。その中の一篇が「秋の日の/ヸオロンの……」で有名な、「落葉」。この詩は「海潮音」に収録される前、明治三十八年六月の「明星」に発表されている。

 大正二年(一九一三年)四月、永井荷風の「珊瑚集」には七篇。ボクはこの中の「無題」という詩が好きで、この詩はヴェルレーヌが詩人としてもっとも充実していた頃、先にも言及したが、三十六歳に出版した「かしこさ(叡智)」という詩集に収録されていて、十代の頃、何度も読んでボクは暗唱していた。

 それから大正十四年(一九二五年)九月に出版された堀口大學の「月下の一群」には九篇翻訳されている。この中では、「ロンドン・ブリッジ」という作品の翻訳がボクの好みだ。

 上田敏が訳した「落葉」という作品は、一八六六年、ヴェルレーヌ二十二歳の時に自費出版した詩集「土星びとの歌」の中の一篇。この詩集には、「NEVERMORE」および「三とせののちに」という作品が入っていて、ボクは十七歳の時読んだ橋本一明訳のヴェルレーヌのなかではとりわけ愛唱した。「NEVERMORE」は言うまでもなく、エドガー・ポーの「大鴉」という作品の中で鴉が孤独な学者に向かってリフレインする詩句だが、そしてこの「大鴉」という自作をポーは詩論「構成の原理」で詳細に分析しているが、それはともかく、このRとOで構成された言葉、NEVERMORE、確かにポーのおっしゃるとおり、とても微妙でステキに反響している。このたび、ワイフの遺した「ヴェルレーヌ詩集」を読み終えて、本を閉じる前に、、若い頃ボクが魅惑されたこの詩、「NEVERMORE」をご紹介してこのおしゃべりなボクのくちびるとお別れしたい。

 

    NEVERMORE

 

 思い出よ 思い出よ どうしようというのだ ぼくを

 秋 澄んだ空気をよこぎって つぐみが枝をわたっていた

 黄ばみはじめた森のうえに 太陽は 単調な光を投げていた

 いまは北風の吹きすさぶ 森のこずえに

 

 あのひととぼくは ただふたり 夢みつつ 歩いていた

 髪の毛と 思いを 風になびかせて ふとあのひとの

 心をゆさぶるまなざしが ぼくをとらえた ≪いちばんしあわせな日は

 どんなでした?≫と あのひとのなま身のなまの声

 

 みずみずしく清らかにひびき やさしくとおるあのひとの声

 ひかえめな ほほえみが 返答だった

 ぼくはつつましく あのひとの白い手に くちづけた

 

 -ああ 初の花々は なんとかおりの高いことか!

 愛するひとの唇をもれる さいしょのouiの

 さらさらと さらさらと なんと愛らしくさやめくことか!