芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

世界の詩集第七巻「リルケ詩集」

 この詩集もワイフの遺品である。ボクと出会う前の若き日に彼女はこの詩集を読んでいた。

 

 世界の詩集7「リルケ詩集」 富士川英郎訳 角川書店 昭和42年10月10日初版

 

 ボクはリルケを多少かじってはいるが、何度かじっくり読んでみたのは一九二二年、リルケ四十六歳の時に完成された「ドゥイノの悲歌」だけだった。それから、何篇か愛唱した詩があって、例えば「マルテの手記」の中で歌われる「歌曲」(本書158頁~159頁参照)などは暗唱していた。昔、もう四十年前後経っているので大昔と言っていいが、リルケの詩に「秋」という詩があった。この詩も暗唱していた。全文を引用する。

 

    秋

 

 木の葉が落ちる 落ちる 遠くからのように

 大空の遠い園生(そのふ)が枯れたように

 木の葉は否定の身ぶりで落ちる

 

 そして夜々には 重たい地球が

 あらゆる星の群から 寂寥のなかへ落ちる

 

 われわれはみんな落ちる この手も落ちる

 ほかをごらん 落下はすべてにあるのだ

 

 けれども ただひとり この落下を

 限りなくやさしく その両手に支えている者がある(71頁)

 

 この詩の中の第三行目「否定の身ぶり」という表現はわかりにくいが、訳者の解説によると、「落葉がまるで『首をふっているように』(否定や拒否の動作)ゆらゆらゆれながら落ちるさまを形容したのであるが、落葉が生命の否定であるという意味もその背後にかくされているだろう」(261頁)。成程。そういうことか。この解説を読んで、首をたてにふる人も多いだろう。

 だとするならば、最終行の、落葉を「その両手に支えている者」は、言い換えれば、「限りなくやさしく、その両手で死者を支えている者」だろう。秋の背後に鎮魂歌が聴こえている。面倒でなければ、もう一度、一行目から最終行まで読んでいただきたい。

 話は変わるが、この詩の第三連と第四連を引用している石上玄一郎の「空笑」という小説を、ボクは思い出す(石上玄一郎作品集第三巻155頁、冬樹社、昭和46年3月30日初版を見よ)。主人公の覚造はデパートの屋上から飛び降り自殺を遂行するが、落下の途中、電線に引っかかって反転し、路上の靴磨きの老人の上に落ちて、老人は即死するが、覚造は軽傷で自殺未遂に終る。従って、この小説の場合、「その両手に支えている者」とは、覚造の死を救った「電線と靴磨きの老人」だった。詩の文言を作品の中に引用し、小説のストーリーを興味深く仕上げていく一例として、余談ではあるがご紹介した。

 さて、この「秋」という詩は、リルケが三十歳前後で書いた作品を収めた「形象集」という詩集の中の一篇だが、その後、「新詩集」を経て、ヴァレリーが「純粋時間のなかに閉じこめられてでもいるような」ミュゾットの館の孤高な生活の中から、先程述べた「ドゥイノの悲歌」、「オルフォイスへのソネット」が完成され、後期の詩群が生まれる。

 これら後期の詩群を理解するため、二十代によく読んだハイデガーの本を久しぶりに本棚から引っぱり出した。

 

 「乏しき時代の詩人」ハイデッガー選集5 手塚富雄、高橋英夫訳 理想社

 

 今回、ハイデガーの文章を読んでみて、若い頃に感じた、「難解だ!」、そんな印象は受けなかった。噛み砕いて簡潔に言えば、現代の科学・技術中心の生活から、「心情空間」を中心にした生活に転向する、そしてその「心情空間」を表現する言葉、それがリルケの詩といっていいのだろう。

 

   重力

 

 中心 あらゆるものから

 自分を引きよせ 飛んでいるものからさえも

 自分を取りもどすものよ 中心 最も強力なものよ

 

 立っているものよ 飲物が渇きのなかを落ちてゆくように

 重力が彼のなかを逆さまに落ちてゆく

 

 けれども 眠っている者からは降るのだ

 棚引いている雲からのように

 重力の豊かな雨が(239頁)

 

 この「中心」という言葉は、「果実」(226頁)という作品の最終行にも出てくる。時間が許せば、あわせて読んでいただきたい。リルケの「中心」は、ハイデガーのいう「心情空間」と考えて大過ないと思う。もう一度確認しておくが、これらの詩群は、「もの悲しい山々の広漠とした風景のなかの、恐ろしいまでに孤独な、ごく小さな館」とヴァレリーが表現したミュゾットの生活の中から霊感された言葉である。つねにリルケの言葉は「中心」へ、ハイデガーのいう「心情空間」へ永遠回帰する。その消息は、こんなふうにも表現されている。

 

 そして今日から今日へ なんと多くの明日があったことだろう(「あまりにも久しく抑えられていた」最終行、234頁)