芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

全訳「正法眼蔵」巻一 中村宗一著

 さっぱりわからなかった。おそらく西暦一二四〇年前後、禅の修行者を前にした道元の説法を中心に書写されたものだろうか。こういった特殊な状況下で特殊な言葉で語られた文を、ボクのような門外漢がわかるはずもないし、また、わからなくて当たり前だろう。決して自分の無能を悲観することはない。むしろ、読まないほうがいいのかもしれない。現に、江戸時代頃までは、一部の修行者を除いて、世間に流布している文ではなかった、という。

 

 全訳「正法眼蔵」巻一 中村宗一著 誠信書房 1971年10月20日第一刷、2001年1月20日第20刷

 

 この本は上段に大久保道舟博士が翻刻した原文、下段に中村宗一師を中心にした禅文化学院の人々による現代訳文を掲載している。第一巻は「正法眼蔵第一 現成公案」から「第二十五 谿声山色」までが収録されている。先にも述べたとおり、難解極まりなく、ボクのような浅学無頼の徒は下手に手出しをしないほうが身のためだと思う。いたずらに意味不明の時間を浪費する必要もあるまい。

 わからない、そのもっとも大きな理由は、一言でいって、坐禅の体験がない、これである。余談になるが、もう少し丁寧に説明しよう。

 まだ中学生の頃、小学校から好きだった手品を本格的にやりたくて、ボクは西宮奇術クラブに所属していた。年配の会員の方が臨済禅をやっていて、有志を募り、西宮市役所の裏手にある海清寺というお寺に日曜日の早朝、参禅した。中学生のボクにはなにがなにやらよくわからなかったが、道場で結跏趺坐していると次第に心がしんとしてきた。その後、本堂に参会してご住職の説法が終わると、タクワンとカユの朝食。タクワンをかじる音をちょっとでもたてると叱られるので、まったくシーンとしている。ボクが何度か足を運んだのも、なんのことはない、タクワンがとてもおいしかったからだ。この少年は仏教でいう五欲のひとつ、飲食欲を解脱していなかった。残念な話だが、今でもしていない。そして、坐禅に関して言えば、この中学時代の思い出だけだ。

 

 一切衆生、悉有仏性。(16頁上段)

 

 「正法眼蔵第三 仏性」の巻頭にこの釈迦牟尼仏の言葉を掲げている。現代訳文では「一切衆生には、ことごとく仏性がある」(16頁下段)となっている。この場合の一切衆生とは、「すべて、あるもの」と考えて大過ないと、ボクは思っている。

 さて、先程、長々とボクのお粗末な参禅体験を描いた。というのも、道元によれば、「一切衆生、悉有仏性」という仏教の根本精神を悟るのは、坐禅である。もう少し詳しく言えば、坐禅即仏、自己の坐禅はすなわち仏と一体であり、この時、同時にすべての存在しているものには仏性がある、この根本事実を悟るのである。従って、ボクのように坐禅していない人間には、「一切衆生、悉有仏性」という言葉の字面をおって、ある程度、頭で理解はできようが、坐禅による悟り、つまり、この根本精神を体験はしていないのだ。本来、ボクにも仏性がありながら、タクワンが好きなボクは仏になってはいないから、「一切衆生、悉有仏性」はほんとうには見えていない。

 「正法眼蔵第十一 坐禅儀」には、「坐禅は習禅にはあらず、大安楽の法門なり、不染汗の修証なり」(172頁上段)とある。現代訳文ではこうなっている。「坐禅は悟りのための手段ではなく、坐禅そのものが仏として完成された行為なのである。なんのまじりけもなく、修行そのままが悟りなのである」(172頁下段)。

 また、「正法眼蔵第十二 坐禅箴」には、こんな端的な言葉もある。

 

 原文 汝学坐禅、為学坐仏。(183頁上段)

 訳文 お前が坐禅を参学するということは、坐禅そのままが仏である、即ち坐仏を参学することだ。(同頁下段)

 

 以上の次第で、参禅しないボクには「正法眼蔵」のほんとうに指示しているところは、何もわかっていない、見えていないと言っていい。まだ書きたい事は山ほどあるが、書けば書くほど自らの無知をさらけ出すばかり、とりあえずこのあたりで。