芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

マルクーゼの「ユートピアの終焉」

 この本は、一九六七年七月十日から十三日にかけて、ベルリン自由大学において行われた講演、討論を構成したものである。訳者の解説によれば、この講演の行われる一ヶ月ほど前に、官憲のテロルに対する激しい抵抗運動があり、ベルリン自由大学はほぼ一週間にわたって、抗議集会、討論集会で沸騰していた。

 一九六七年といえば、ボクは十八歳。もっとも大きな原因は、ベトナム戦争の残虐・無慚な、まるで地獄絵のような映像や連日の報道だった。ボクのような若者たち、つまり所謂「団塊の世代」を中心に日本の各地で抗議集会や反戦デモが沸き起こった。今では信じ難い話だが、特に先進資本主義国の若者が反戦運動やさらに過激になって革命運動まで展開していた。そして、この本の著者は、その頃のアメリカのニューレフト(新左翼)の理論的指導者だった。

 

 「ユートピアの終焉」マルクーゼ著 清水多吉訳 合同出版 1969年3月10日第五刷

 

 ボクがこの本を読んだのは十九歳の時、確か一九六九年の三月下旬か四月上旬だった。普段、本に下線を引かないボクがあちらこちらに下線を引いている。精神が高揚していたのか。この本を読んだ二十日余り後、一九六九年四月二十八日の沖縄デーの反戦の闘争に参加。山手線の新橋・有楽町間の線路上で機動隊にボクは逮捕された。

 

「平和裡に、ある生活水準に到達しているわれわれの社会において、革命について思考をめぐらすなどということは、まず狂気の沙汰のように見える。なぜなら、われわれは、われわれの欲するすべてのものを持っているからである。それゆえ、ここでは意欲自身を変えることが問題となる。なぜなら、現在意欲されているものは、もはやただちに満たされる状態になっているゆえに、意欲の名に値しないからである」(35頁)。

 

 ちなみにボクはマルクーゼのこの発言の中では、「意欲自身を変えることが問題となる」にアンダーラインを引いている。やはり、精神が異様に高揚しているらしい。極めて反語的とも言えるマルクーゼの発言の通り、先進資本主義国が豊かになり、国民に安定した衣食住の供給が可能になった時代に、何故「革命」を求めるのだろうか? いったい何を「革命」しようとするのだろうか? 既に、先進資本主義国では貧困故に革命を意欲する時代は去っていた。

 

 「ここで個人的な話になるのを許していただきたい。あなたは、ドイツ社会民主党を修正主義と呼ばれたが、これだけは申し上げておきたい。というのは、私は、私独自の政治的啓蒙活動を開始して以来、つまり、一九一九年以来だが、この党に対して反対し続けてきた。私は一九一七年から十八年にかけてドイツ社会民主党員であったのだが、あのローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトの虐殺以後、脱党し、以来この党の政策を批判し続けてきている。私が批判し反対したのは、この党が、現体制の枠内で活動しうると考えていたからではない。そんなことなら、われわれのすべてがやっている。そう、われわれすべては、現体制を変革しうるような現体制内の最も小さい可能性でさえ利用しようとしている。そんなことのために、私はこの党を批判したのではない。私が批判し反対したのは、この党が反動的、破壊的、抑圧的な勢力と結託して、活動したからなのである」(86~87頁)。

 

 マルクーゼは十九歳くらいの時、ドイツ社会民主党員であり、一年くらいで離党している。そして、上記の発言は、彼は一九九八年七月十八日生まれだから、ちょうど六十九歳になった時に回顧したものである。彼は少なくとも十九歳前後からずっと反動的、破壊的、抑圧的勢力と自分独自の闘いを継続してきたのである。そして、三十代には、既に自分の思想の原点を確立している。歴史を人間の労働の在り方を核にして弁証法的に理解する方法である。すなわち、一言で言えば、資本主義社会の疎外された労働の廃絶、これである。おそらく疎外されない、人間本来の労働は、これまでの労働の概念を覆して、美的・エロス的労働=遊びへと変容する。疎外されていない主体的活動は「遊び」と言っていいであろう。しかし、これはあくまで歴史の「可能性」であり、同時にまた、必ず実現される「ユートピア」である。

 意志薄弱で飽き性のボクの場合、一年余りで革命運動から離脱して、結局、革命とは縁のない、自営業者をワイフとふたりでなりわいにして、娑婆苦をしのいできた。ワイフもあの当時の三里塚闘争から去った人だった。しかし、四十三年間、ボクはワイフと楽しくてトテモ素晴らしい人生を送ったことだけは、書いておきたい。三年前、ワイフはこの世を去った。いま、六十八歳の孤独老人になって、とうとう懐古趣味がやって来たのか、色あせた本の頁を無心に繰っていた。

 

 「ところで、私はあなたに、西側のかなり効果的な指導の下に成立した諸国において、極めて実効のある発展改革があった事実を指摘できると思う。例えば、日本の例が考えられる。この国は、工業化という主要問題は、すでに片づけてしまっていたが、農業の封建的構造に悩んでいた。この国では、アメリカの主導の下に極めて効果的で、住民の生活水準を高める農業改革が実現されたのである。また、台湾における農業改革を挙げてもよい。こうすることで、私は、なにも西側世界がいたるところの植民地で恩恵と改革をもたらしている、と言いたいのではない。私が言いたいのは、西側世界のもたらすのは、必然的に寡頭支配的抑圧の支持なのではなくて、さまざまな可能性であり、この可能性の獲得のために闘うことができる、ということである」(127頁)

 

 討論会のこの発言はレーヴェンタールが、彼はおそらくマルクーゼと同じフランクフルト学派だと思うが、西側諸国の植民地政策の成功例を述べたものである。確かに、戦前ヨーロッパからアメリカに亡命したフランクフルト学派の学者が、戦後のドイツや日本の復興計画に参画している。従って、レーヴェンタールのこの発言は、かなり信憑性の高いものだ。この文面を素直に読むと、戦後日本の農地改革はアメリカ主導で実行されたものであり、レーヴェンタールの見解によれば、この討論会のあった年、少なくとも一九六七年七月の時点では 、日本は西側諸国の、とりわけ戦勝国アメリカの植民地だった。第二次世界大戦に敗戦したということはいったいどういう事態なのか、その一端がここに明確に表現されている。