芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

マルクーゼの「エロス的文明」

 この本は、「抑圧のない文明」、つまり現代のユートピアの可能性をフロイトの心理学をベースにして考察している。フロイトによれば、「文明は人間の本能を永久に抑圧することである」(本書1頁)。ということは、「抑圧のない文明」の可能性をフロイトは否定していることになるのだが、この本の著者、マルクーゼは「抑圧のない文明」の可能性を論理的に構築していく。

 

 「エロス的文明」マルクーゼ著、南博訳、紀伊國屋書店、1968年11月30日第6刷

 

 ボクの誤解かもしれないが、あらかじめ確認しておきたいことがある。マルクーゼの「理性」の理解は、第一次世界大戦のさなか、一九四一年に発表された「理性と革命」と、戦後、一九五六年に発表された本書とは、ニュアンスが異なっている。「理性と革命」においては、理性が現実の矛盾とそれを克服する可能性を発見して、矛盾した現実をその可能性に向かって変革してきた歴史的現実の側面を強調していた。しかし本書では、「理性とは、実行原則の合理性である。西欧文明の初めにおいてさえ、この原則が制度化されるはるか以前に、理性は束縛であり、本能を禁圧するひとつの道具として定義された」(144頁)として、理性は文明を抑圧する道具だと規定している。ボクが推測するに、「理性と革命」が書かれた時期は、彼がアメリカに亡命後、ヒトラーを中心とした国家社会主義体制のドイツが世界大戦の快進撃を続けていて、こういう時代と対決する意味でも、歴史の矛盾を弁証法的に否定する「理性」の「正」の面を強調しなければならなかったのだろう。逆に、第二次大戦後の戦勝国アメリカ資本主義の未曾有の経済的繁栄の中で生きたマルクーゼは、その状況に対応する理論の構築を迫られたのであろう。また、ソビエト連邦のスターリンの独裁政権の現実をまのあたりにして社会主義の再検討に迫られたのだろう。だから、理性が、フロイトのいう所謂「快楽原則」の本能を現実社会の実行原則に抑圧する道具だとして、それの「負」の側面を強調したのではないか。こんな考え方は、あくまで、ボクの浅見に過ぎないけれども。

 本書におけるマルクーゼの考え方の骨子はこうである。

 現代の先進資本主義国の多くの人々の生活は、まずフルタイムの職業の規律に従い、一夫一婦制の性の規律を守り、現在の法と秩序に従わなければならない。何故このような生活を送らなければならないかといえば、欠乏(生活苦)が、人間に、快楽原則、つまり本能的な衝動で快楽を満足させることを、制限ないし禁止し、快楽への衝動を遅延させて、その精力を性的活動から生活を十分に維持させる生産的な仕事の方へ転換させねばならないから。性欲は、本来、多形的な表現をとるものだが、例えば一夫一婦制のような性本能の社会的な組織化は、基本的には、生殖に奉仕し、生殖を準備しないような性本能のあらわれをすべて倒錯として禁止する。

 ところで、生産力が少ない時代では生存競争のために長時間労働が必要で、人間の本能的な快楽原則の抑圧が社会的な規制として生じる。しかし、生産力が増大するに従って、生存するために長時間労働の必要性が減少する。従って快楽原則の抑圧のための社会的規制はゆるくなっていく。ここでマルクーゼが問題にするのは、生存のために必要な抑圧ではなく、労働者に必要以上に科せられる過剰抑圧である。そして、過剰抑圧は疎外された労働から生じる。

 疎外された労働の考え方は、一九三二年、ドイツではじめて発表された若きマルクスが一八四四年に書いた「経済学・哲学手稿」からはじまる。同じ年にマルクーゼは「史的唯物論の基礎づけのための新しい文献」という「経済学・哲学手稿」を解釈した論文を発表している。マルクスの疎外論研究の先駆者であり、一九四一年に発表された「理性と革命」は、ヘーゲル弁証法哲学の正統な継承者としてマルクスをあげ、その疎外論を論じている。

 今さら言うまでもなく、確かに人間は自由ではあるが、生産手段を所有しない労働者は自分の労働力を売って賃金を得てそれで生活する以外の自由はない。彼の生産物も彼のものではない。人間は一日働いたら一日の生活費以上の剰余生産物を生産する。だから奴隷所有者は奴隷を所有する。労働者も一日働いたら自分の生活費以上のものを生産するが、会社と出資者がその利益を処分する。こういう状態を、疎外された労働というのだろうか。

 簡単に言えば、マルクーゼは疎外された労働が止揚されたなら、すなわち正常な労働になれば、もっと労働時間も短縮されるだろうし、自分の作った生産物をその剰余生産物も含めて労働者が主体的に処分できるだろうし、人間の本能、所謂「快楽原則」も社会的な規制がゆるめられ、人間はその本来のエロスを満足し、現在よりも幸福な生活を送ることが出来るだろう。もちろん性愛を狭い枠に閉じ込めていた一夫一婦制も消滅する。人間は有史以来初めて「抑圧のない文明」の中で生活することになる。

 本書は、エピローグでフロムを代表とするフロイト心理学の修正主義者を批判する。一言で言えば、彼等は現実を変えるのではなく、例えばノイローゼの患者の心を変えて現実に適応できるように治療する。せいぜい現実を批判するが、道徳や宗教の問題として、すなわち心の問題として解決する。

 ああ、また、今夜も長々とおしゃべりしてしまった。もちろん、孤独な老人の妄語である。