芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

星野元豊の「浄土の哲学」

 今から四十三年昔、二十六歳の時に夢中になってむさぼり読んだこの本を、ボクはこの歳になってもう一度開き、最終行を見つめて、本を閉じた。懐かしくて胸が震えた。集中した読書をして重たくなったまぶたを休めるため、ベランダに立って、庭の木々を眺めた。風があって、網目状になった枝は揺れ、木の葉は合唱するようにざわめいた。

 

 「浄土の哲学ー続『浄土』」 星野元豊著 法蔵館 昭和50年5月10日第一刷発行

 

 前著「浄土」が書かれてから十八年の歳月が流れて、この著作は出版された。論理はさらに明晰になり、わかりやすくなり、奥行きも深くなっている。おそらく著者の信仰がこの十八年の時空の中で、自然に深く豊かになっているのだろう。この本が出版されておおよそ二年後、著者が住職をしている大分県の水俣に近い寺を若造のボクは訪問したが、こんな著者の言葉を鮮明に記憶している。

 

「滝沢克己さんは何かあったと聞いていますが、僕の場合、自然にこうなったんです」

 

 ところで、今、ベランダに立って、庭を眺めて眼を休めているのだが、ボクが見ている木も花も、そしてこのボク自身も、著者の言うとおり、「生かされて、生きている」のだろう。当たり前の話だが、木も花もボクも自分の力でこの世に生まれてきたわけではなく、なにものかに「在らしめられて、ここに在る」のだろう。

 このボク自身の意志や意識や欲望からはまったく先立って「生かされて、生きている」事態に、感謝して、毎日人として楽しく暮らしていくための正確な道の地図を、星野元豊はこのボクにわざわざ書いてくれたのだろう、「ヤマシタ君、ホラ、こんなイイ地図があるよ」。そうボクは思っている。ボクがこの濁世に生まれたことに不平や不満を持ったり、まして「生まれた日を呪う」人間に決してならないように。

 なにものかに生かされて、生きている、あるいは言いかえれば、なにものかに在らしめられて、ここに在る、星野元豊によれば、この「なにものか」、この「第三者」は、「仏」と呼んで一向にさしつかえない、そういうことなのかもしれない。

 本書の最終頁、二九五頁をご覧いただきたい。『真宗聖教全書』に対する著者の強い批判文が書かれている。さまざまな理由があるが、とりわけ、この全書に収録されている「教行信証」化身土巻の所謂「後序」と呼ばれている文の中の、

 

 主上臣下背法違義成忿結怨

 

この一行中の一句、「主上」が戦時中に欠字にされた。ところが、著者が「浄土の哲学」を書いている昭和四十年代後半に新たに買い求めた『真宗聖教全書』に収録されている「教行信証」にも「主上」が欠字にされている。著者は目を疑い、唖然とし、かつ憤然とした。そして、今後はこの全書を一切使用しないことにした。星野元豊にとって、事柄の真実がアルファでありオメガだったろう。

 この所謂「後序」は、親鸞が自分を破戒僧の「禿」として、愚禿親鸞と呼んだ、その事態を身命を賭して語った大切な文である。詳細は著者の「講解教行信証」化身土の巻(末)2221~2224頁を読んでいただきたい。言うまでもなく、「主上」とは天皇である。