芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

星野元豊の「浄土」

 ボクは二十六歳の時、この本を手にして、感動した。もう四十三年昔の話である。

 このところ、十代二十代の頃に読んで、スゴイ! そう思った本を再読している。贅沢な老後の時間である。

 

 「浄土ー存在と意義」 星野元豊著 法蔵館 昭和32年4月8日発行 昭和50年6月10日第四刷

 

 著者は、浄土真宗の寺の住職であるが、同時に龍谷大学の学長まで勤めた宗教哲学者である。従って、本書は「浄土」を主題にして書かれているが、浄土系の宗教に無縁の人であっても、難解ではあるが、真摯に向き合えば、著者の「救済論」は必ず理解できる。

 もちろん、ボクのような浅学の徒が、この本に表現された高度に純化された宗教の具体的論理構造を批評するのは許されないだろう。ぜひ一読してもらいたい。

 もともと人間という存在は、神とは背面的関係(本書13頁参照)にあって、神の方向ではなく、常に地獄の方向に向かって歩いている。ところが、その凡夫が歩いている方向が、一瞬、神の方向に反転する事態がある。すなわち、仏の方から働いて、凡夫の煩悩の働きが、仏の働きとしてこの世で実現される。この奇跡とも言うべき宗教体験を、何人にもわかるように哲学的に解明している。

 それはさておき、二十代のボクがこの本に感動したのは、著者の具体的・主体的な宗教体験を核にして、それを透明な美しい論理構造で表現されているのに驚いたことにあるが、また、引用されている文献のすばらしさにもあった。いたるところで、著者の鑑識眼が煌めいている。例えば、こうだ。

 

 「人世間愛慾の中に在りて、独り生じ独り死し、独り去り独り来る。まさに行きて苦楽の地に至り趣くべし。身自ら之にあたる、代る者あることなし。」(無量寿経 下 十二丁、本書47頁、172頁)

 

 人間はずっと昔から、畢竟、ただ独りで生死する存在だ。この事実を美しい文章で経典は表現している。念のため、漢文をあげておく。

 

 「人在世間愛欲之中、獨生獨死獨去獨来。當行至趣苦楽之地。身自當之、無有代者。」(浄土三部経 上 岩波文庫1976年6月20日第14刷180頁から引用)

 

 独生独死独去独来。事実を簡潔に正確に表現した、まことに美しい言葉ではないか。宗教的実践はこの地獄的事実からの反転と言って決して過言ではないだろう。

 それからもうひとつ。若かったボクを刺激した引用文をあげておく。

 

 「往生というは『大経』には皆受自然虚無之身無極之体といえり」(親鸞「教行信証」真仏土巻 三十丁からの引用、本書41頁)

 

 ちなみに、親鸞の「教行信証」の原文では、こうなっている。(返り点や送り仮名等は省略)

 

 言往生者大経言皆受自然虚无之身无極之軆

 

 そして、著者は「講解教行信証」真仏土の巻1654~1655頁にこの文を解釈している。真仏土、所謂「浄土」を理解するにも、大切でわかりやすい解釈なので、多少長い文にはなるが、あえてここに引用して、二十七歳の時に鹿児島県大口市の寺に独り参じた何処の馬の骨とも知れぬ若輩の私をあたたかく迎えてくださった星野元豊、奥様、彼の「浄土」にもう一度感謝の気持を捧げたい。

 

 「往生というのはどういうことかといえば、『大経』には「皆、自然虚無之身、無極の体を受ける」とある。普通に往生といえば、肉体的に死ぬことだと考えている。普通にだけではなく学者のなかでも概念的にはいろいろとむつかしい言葉を弄してはいても、押しつめてゆけばこのように考えている人も多いのではなかろうか。だが『無量寿経』はそうはいっていない。自然虚無の身をうけることだという。わたくしたちが自然そのものになること、全く虚無に帰すること、絶対空、絶対無になることだというのである。無極の体をうけることだという。究極の無限絶対の空そのものになること、それが往生ということである。真仏、真土そのものになりきること、それが往生だというのである。肉体の死などということは往生と無関係のことなのである。従って往生ということは概念的にいえば、形而上的概念である。それを世俗的慣用の観念と結びつけて考えるところに間違いが生ずるのである。」