芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

偶然、シェンキェーヴィチの「クオ・ワディス」を読む。

「今、ショーロホフの『静かなドン』を読んでいます。昔、えっちゃんが読んでいた本だが、彼女を偲んで」
「おもしろい?」
「まだ、読みかけたとこだから……」
「シェンキェヴィチの『クォ・ヴァディス』って、おもしろいよ。ネロ時代のローマの正確な歴史を土台にして、その上に虚構の世界を描いているの。一度、読んでみな」
 こないだの七月七日、七夕の夜、いつものホテルのラウンジで彼女と、ボクはAと呼んでいるのだが、こんなおしゃべりをした。

 「クオ・ワディス」 シェンキェーヴィチ作 木村彰一訳 岩波文庫全三冊

 Aよ、ありがとう。確かに、とても、おもしろい本だった。……小説の土台に紀元一世紀のローマの歴史的事実や風俗・地理・風景を微細に描きながら、その中に、虚構の愛の物語が展開していく。愛といっても、単に男女の恋愛だけではなく、例えば、「サテュリコン」の作者といわれているペトロニウスの上質な古代ローマ人の愛のあり方、あるいは、キリスト教の使徒ペテロやパウロの愛のあり方、リギ族の族長の娘リギアに対する彼女の護衛ウルススの愛のあり方、これらさまざまな愛が時の流れの中で、さながら大理石の彫刻のようにくっきり純白に刻まれていく。そして、さまざまな愛の根底には使徒パウロのこの言葉がしめやかに反響している。

 「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた、わたしに預言する力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。」(コリント人への第一の手紙第十三章1~3)