芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

ローザ・ルクセンブルクの「資本蓄積論」第三篇

 芦屋芸術の第七回「ローザ・ルクセンブルク読書会」は、マルクスが「資本論」第二巻で論及した社会的総資本の再生産表式に対して、特にその拡大再生産表式に対して、ローザ・ルクセンブルクが真正面から批判した論文を取り扱う。

 

 資本蓄積論第三篇 ローザ・ルクセンブルグ著 長谷部文雄訳 青木文庫 1978年12月15日第1版第12刷

 

 不勉強なボクは「資本論」という本を単純にこう考えていた。とりあえず、その概略を説明しておく。

 十九世紀初頭から半ばにかけて、英国では生産手段に蒸気機関を利用した大工場が建設され、ここに産業革命が勃発し、資本主義社会が成立した。過去の封建的な身分制度は廃止され、国家権力の経済への介入が排除され、社会的な総生産が基本的には資本家と労働者という二大階級によって形成される時代が来た。もちろん、貴族や非資本主義的な農民や小市民的階層も存在している。しかし、社会的な生産の根幹は、資本家と労働者という二大階級が担い始めた。従って、過去の歴史ではありえなかった、考えることさえ出来なかった、資本主義社会に特有の、すなわち、すべての生産物が商品として売買される時代が出現した。そして、マルクスの「資本論」はこの二大階級によって形成される資本主義生産の根本構造を明らかにした。

 さて、ローザ・ルクセンブルクの「資本論」への批判は、マルクスが生前発表した「資本論第一巻」ではなく、彼の死後エンゲルスが編集した「資本論」第二巻、とりわけ資本の蓄積における所謂「拡大再生産表式」に対して向けられた。

 前二回の芦屋芸術「ローザ・ルクセンブルク読書会」でも指摘しておいたとおり、資本家が手にする剰余価値をすべて生活手段に交換して費消してしまう単純再生産ではなく、その剰余価値の一部を資本として運用する場合、これを拡大再生産という。言うまでもなく、いつの時代でも生産手段を改良して拡大再生産を人間はやって来たのだが、上掲した機械的大工場の急激な生産力の増大は、さらなる資本蓄積へ、拡大再生産へ資本家の欲望を駆り立てた。そもそもマルクスの再生産表式は、いつの時代でも行われている社会的総生産が資本として流通して資本主義が成立するのを、表式としてわかりやすく表現したもので、資本主義が一社会として典型的に成立した英国の歴史をモデルにしている。しかし、ローザはこう主張する。

 

 「表式では、資本制的発展の事実上の経過とは矛盾する」(401頁)

 

 ローザは拡大再生産の急激な増大によって生産された生産物は、マルクスのいう資本家と労働者の二大階級だけでは費消出来ない。また、マルクスの拡大再生産表式では資本主義が永続するものとして仮定されているが、それは具体的な現実から遊離している。ローザは英国だけではなく、ドイツやフランス、米国などが資本家と労働者の二大階級以外に非資本主義的な階層や諸国を購買者として強制した現実を具体的に明らかにする。つまり、マルクスが英国を典型的なモデルとして抽象した資本家と労働者という二大階級によって成立する資本主義の構造を明らかにした「資本論」の論理に対して、資本蓄積により増大した生産物の購買者を求めて軍隊を背景にした資本主義の非資本主義領域への侵略と収奪の歴史と現実を持ち出して批判する。論理の成否はひとまず措くとして、ローザは決して学者ではない、余りにも純粋な革命家だ、ボクは驚きの念を禁じ得なかった。海外侵略した資本主義国家の冷酷無比な姿をローザは論理的に克明に描写している。われわれの曽祖父たちの時代のヨーロッパの資本家や軍隊がいったいどんな姿でアフリカや中近東や中国に進出したのか。とても興味深いではないか。確かに資本家とその関係者たちは、ハイエナよりも獰猛だった。是非、御一読を。

 ローザは結論して、言う、

 

 「資本主義は、普及力を持った最初の経済形態であり、世界に拡がって他のすべての経済形態を駆逐する傾向をもった、他の経済形態の併存を許さない、一形態である。だが同時にそれは、独りでは・その環境およびその培養土としての他の経済形態なしには・実存しえない最初の形態である。すなわちそれは、世界形態たろうとする傾向をもつと同時に、その内部的不可能性のゆえに生産の世界形態たりえない最初の形態である。それは、それ自身において一個の生きた歴史的矛盾であり、その蓄積運動は、矛盾の表現であり、矛盾のたえざる解決であると同時に強大化である。ある特定の発展高度に達すれば、この矛盾は、社会主義の原理の充用によるほかには解決されえない」(568~569頁)