芦屋芸術|芸術誌・現代詩・小説

井上ひさしの「父と暮せば」

 この戯曲は、広島に住む父子の家庭が原爆に被爆、倒壊した家屋に下敷きになった父を猛火の中で救えず自分だけが避難して生き残った二十歳の娘が、三年後、恋人に出会い、はたして「父を捨てて生き残った」自分が幸福な生活を選ぶことが

堀田善衛の「審判」

 この物語は、一九五九年の社会状況の中で、保守的な大学教授とその妻、その子供たち兄弟姉妹四人、その母方の叔父、彼は戦前、中国の戦線で兵士として民間人の老婆を虐殺している、この彼等家族が住んでいる家に、米国からやって来た男

山口勇子の「荒れ地野ばら」

 この物語は、広島市にある清栄女学院で同じクラスになったふたりの女性、野田槇子と堀井芙由、彼女らはふたごと間違えられるくらい似かよっているのだが、このふたりが、一九三五年から一九四五年の十年間、いったいどのような世の中を

芦屋浜・夜

 このところ雨や曇った日が続いていたが、きょうは昼間晴れていたので、待ちかねて、夜の八時半頃、ボクは芦屋浜へ出た。我が家の周辺は街灯で明るく、暗い浜辺で空を見上げるのが、綺麗だ。  満月と木星が近づいて愛を語り、その右側

松谷みよ子の「ふたりのイーダ」

 歩きながらおしゃべりする椅子が主人公である。この主人公に、小学校四年生の直樹と二歳十一ヶ月の妹のゆう子、それからおそらく二十五歳前後のりつ子、この三人がからみあって物語が展開する。    「ふたりのイーダ」 

井上光晴の「地の群れ」

 ワイフを喪ってからおおよそ五年間、ボクはテレビをまったく見ていない。もともとボクはテレビッ子ではなかった。ワイフが存命中の時でもせいぜいニュースを少し見る程度。そのうえ、今はネットがあるので見たいニュースだけクリックす

永井隆の「この子を残して」

 この書は、長崎の原子爆弾で妻を失い、自らも被爆して余命いくばくもない父が、疎開させていて被爆しなかった二人の子供の戦災孤児としての行く末を危ぶみ、筆をとったものである。将来、子供たちが成長した時、父の真実の思いを知って

新詩集「詩篇 えっちゃん」を出版します‼

 ボクのワイフ、えっちゃんが永眠して、この七月十九日で五年になります。  彼女が亡くなって、なんとかボクは「芦屋芸術」のホームページは維持してきましたが、もう四年間、一冊の本も出せず、「芦屋芸術」も八号止まり。  だが、

永井隆の「ロザリオの鎖」

 一九四五年八月九日の長崎に投下された原爆で、自宅にいた妻を失い、著者自身も長崎医科大学の自室で学生の外来患者診察の指導のためのレントゲンフィルムを選別していた時に被災、傷病をかかえたまま救援活動に徹した記録は著者の書い

永井隆の「長崎の鐘」

 この著作も、原爆の被爆者が書いた他の所謂「原爆文学」と同様に、片岡弥吉の序文によれば、既に一九四六年八月に脱稿していたが、占領軍司令部の発行差し止めにあう。その後、一九四九年一月、日本軍が行った「マニラの悲劇」を付録と

灰色が横たわっていた

正午過ぎ 雨の中を 散歩に出た しばらく 海岸の あずまやの ベンチに座って 芦屋浜を見ていた たくさん まだらになって動く 灰色が 横たわっていた

佐多稲子の「樹影」

 この作家の作品には、不勉強なボクは接したことがなかった。過日、福田須磨子の「われなお生きてあり」(ちくま文庫)を読んだ時、解説を書いていたのがこの作家で、初めて文章に接した。また、福田須磨子が「われなお生きてあり」を書

松尾あつゆきの「原爆句抄」

 この本は、「原爆句抄」として自由律俳句二百二十句、日記から「爆死証明書」、この二篇で構成され、荻原井泉水の「序にかえて」、著者の「あとがき」、被爆した家族の中で唯一生き残った著者の長姉の子、平田周の「復刊によせて」が前

石田雅子の「雅子斃れず」

 この著者は、一九四五年、十四歳の時、父の転勤にともなって東京から長崎に転居し、県立長崎高等女学校に転校、学徒動員で三菱兵器製作所大橋工場に勤務中、八月九日、原子爆弾に被爆した。  東京の学校に在学中で長崎に転居しなかっ

阿川弘之の「魔の遺産」

 一九四五年八月六日、広島に投下された原子爆弾による惨状だけではなく、この書は、それから八年後の広島をルポルタージュする著述家野口によって、原子爆弾投下直後と、その八年後、原爆症に苦しむ人々の姿を写実して、立体的に広島の

「芦屋芸術」の新しいホームページが出来ました!

 「芦屋芸術」の新しいホームページが出来ました。アドレスをお伝えします。  http://ashiya-art.main.jp/   きのうはボクの誕生日で、長男がプレゼントで作ってくれました。ぜひ、アクセスしてください

福田須磨子集「原子野に生きる」

 この著者の文章を読んでいると、人間に対する、それはとりもなおさずこの自分自身に対する、もはや手のほどこしようのない絶望感、治癒不能の虚無感、あえてそうとでもいう他ない黒々とした深淵を、ボクは覚えなくもなかった。  ふと

渡辺広士の「終末伝説」

 この著者でボクが知っていることといえば、わずかである。もうずいぶん昔の話になるが、ボクが二十歳の頃、この著者が翻訳した「ロートレアモン全集」(思潮社、1969年1月10日発行)をよく読んだ。この全集は一巻で完結していて

後藤みな子の「樹滴」

 ほんとうはこの著者の作品集「刻を曳く」(河出書房新社、昭和四十七年八月発行)から読み始めるつもりだった。ネットで探し、値上がりして八千円余りしたが、注文した。だが、在庫ナシ、そんな返事が入った。同時に注文していた同じ著

福田須磨子の「われなお生きてあり」

 一九四五年八月九日、自宅にいた父と母と長姉は、原爆によって家もろとも灰燼に帰し、著者は勤め先で被爆、壊滅した長崎の原子野のかつて自宅があった場所に父の欠けた湯飲み茶碗を発見し、そこを掘ってみると三体の白骨が出てきた。お

みんなそうだと思う

ボクのワイフ えっちゃんの死は この世の片隅の 小さな出来事だったけれど ボクにとっては とても大きな悲しみだった みんなそうだと思う

秋月辰一郎の「死の同心円」

 最近、所謂「原爆文学」を読み続けているが、そういう心境に達したのも、ボクのワイフ、彼女をボクはいつも「えっちゃん」と呼んでいたが、彼女の死が強く作用していると思う。  えっちゃんが永眠してもうすぐ五年になるのだが、そし

亀沢深雪の「広島巡礼」

 歳をとるということは、おそらく、今まで身に着けてきたさまざまな衣装が、晩秋、木の葉が散り落ちていくように、すっかり落ちて、本来の赤裸な姿に帰っていくことではないか。もちろん、歳月の中で、織りあげ、紡いできた夢や虚構もす

もうあきらめていた。だが……

 夕方、芦屋浜まで出た。きょうの昼間は晴れていたので、ボクは期待に胸をふくらませていた。  けれども、すっかり裏切られてしまった。空は薄曇り、星はなく、細い月だけがボンヤリ浮かんでいた。  何度も振り返って月を見上げなが

亀沢深雪の「傷む八月」

 すばらしい作品集だった。「すばらしい」という言葉にためらいを覚えるが、事柄の真実を、つまり、事実とそれに応答する心情を出来るだけ正確に表現した作品、そういう意味で、「すばらしい」と言っていいのではないか。  「痛む八月

いいことがありそうだ

夜来の雨が すっかり晴れて 午前五時過ぎ いちめん うすい藍色の空 その 東 細い月と 金星が恋人のように寄りそって 浮かんでいる やがて 背後から 祝福の 日の出がやって来た きっと きょうは いいことがありそうだ

竹西寛子の「管絃祭」

 きめこまやかな文章を書く人だなあ、本を閉じて、まず、そんな溜息をついた。  見渡せば、原爆投下された広島の八月六日を境にして、時をさかのぼり、あるいは、現在に向かって流れる時空に、さまざまな生者と死者が入り乱れながら、

正田篠枝の「ピカッ子ちゃん」

 この表題の「ピカッ子ちゃん」は、文字通り、一九四五年八月六日午前八時十五分、広島に落ちた「ピカドン」のさなかに誕生した赤ちゃん、「ピカッ子ちゃん」だった。  ピカッ子ちゃんのお父さんは、外地に出征して戦死。身重のお母さ

さんげー原爆歌人正田篠枝の愛と孤独ー

 この歌人は、一九四五年八月六日の広島市内、爆心地より1.7キロの平野町の自宅で被災した時、三十四歳だった。その後、父も義兄も被爆によるガンで死亡、自身も被爆による後遺障害に責め苛まれながら、一九五六年十二月から原爆病院

栗原貞子の「核・天皇・被爆者」

 この本の著者が広島で被爆し、敗戦を迎えたのは三十二歳の時だ。戦中から反軍国主義の作品をノートに書いていた著者は、戦後、一九四五年十二月に細田民樹を顧問に夫栗原唯一と「中国文化連盟」を立ち上げて、ただちに文学運動を開始し

「栗原貞子詩集」を読む

 最近、所謂「原爆文学」と呼ばれている作品を読み続けているが、ほとんどの作品が絶版になっている。従って、ネットで探して、中古品を買わざるを得ない。既に、「原爆文学」は、日本人の心から離別したのだろうか? 「ヒロシマ」や「

あかん、どうしょうもない。

緩和ケア病棟の ベッドの上で えっちゃんは よく とんちゃんごめんね と言った いま ボクは ひとりぼっちで 明け方 ベッドに目覚め なぜか えっちゃんごめんね と言っている

ゴーリキイの「どん底」

 ボクの悪いクセだが、そして、同じようなクセを持っている人は結構いるんじゃないかと思うのだが、いずれ読もうと買った本が、そのまま本棚の片隅に眠っていて、もう買ったことさえ忘れている、そんな衝動買いに近い経験がボクには少な

これを見るために

 今、我が家に帰ってきました。  午後六時四十分頃から、芦屋浜まで歩いたのですが、月も薄い雲に隠れてボンヤリして、カペラ以外、ほとんどの星は雲に覆われていました。きょうはとても不安定な天気で、少し晴れたかと思えば、雨がや

井伏鱒二の「黒い雨」

 このところ、所謂「原爆文学」を読み続けているので、やはり、この本を開いた。  「黒い雨」 井伏鱒二著 新潮文庫 昭和51年9月20日 第16刷  日本を代表するこの作家の短編に関して言えば、それなりに読んでいる。だが、

林京子、を読む。

 このところ、ずっと、被爆者の作品を読んでいる。今まで読んだのは、「ヒロシマ」の被爆者で、被爆後、時を移さず、作品を書き上げた人々だった。すなわち、峠三吉、原民喜、大田洋子。  今回読み終えたのは、「ナガサキ」の三菱兵器

「田中千雄の短歌」を読む

 この歌集を手にしたのは、こんないきさつがあった。……年内には、「芦屋芸術」から岩倉律子さんの詩集を出す予定だが、その岩倉さんから、「私の義兄の遺稿集で、ぜひよんでやってください」、そんなメッセージを添えてこの本が送られ

この冬を生きることが出来た。

 昨夜、七時頃、あちらこちら雲のかたまりが空をふさいでいたが、おおよそは晴れていて、冬の星座がよく見えた。明日は夜明けの空がキレイだろう、ボクは頭の中でそうつぶやいていた。というのも、最近ずっと明け方は曇っているか、雨が

骨と花

          悦子は散骨を望んでいたが、五年近い時が過ぎても、           骨壷は東窓の飾り棚に置かれている。 毎朝 花の水替えをしてると 心の中に 花が満開している ひとりだけの 儀式 骨に支えられ 花に

大田洋子、を読む。

 この書、「屍の街」は、一九四五年八月六日、「ヒロシマ」で被爆した著者が、その事実と、その事実に対応する主観とを言葉で表現した作品である。驚くべきことであるが、著者は、紙やペンが戦火で消失し、避難先で障子紙やちり紙を代用

「或る女」に、出会った。

 過日、船場センタービルで用を済ませ、地下鉄御堂筋線本町駅から梅田に出た折、まだ昼前だったので、紀伊国屋へ寄り、そこで或る女に出会った。  「或る女」 有島武郎著 新潮文庫  もう去年の七夕の話になるが、或る女と打ち合わ

破片

きのう 久しぶりに アルバムを見た カメラが好きだったえっちゃんは たくさん写真を遺していた えっちゃんと生きた 時間の破片が チリバメられていた