芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

井伏鱒二の「黒い雨」

 このところ、所謂「原爆文学」を読み続けているので、やはり、この本を開いた。

 「黒い雨」 井伏鱒二著 新潮文庫 昭和51年9月20日 第16刷

 日本を代表するこの作家の短編に関して言えば、それなりに読んでいる。だが、彼の代表作である本書は、今まで開かなかった。この文庫本を買ったのも、ボクのワイフ、えっちゃんだった。彼女は、おそらく、二十代後半にこの本を買って、読んだであろう。確かに、彼女は短編小説よりも、長編を好んでいた。もう四十年余り昔の話になってしまった。
 すばらしい作品だった。昭和二十年八月六日のヒロシマの惨状だけではなく、それ以前の戦中の軍隊や庶民の生活、原爆投下後から日本の全面降伏を告げた玉音放送、あの八月十五日までの軍隊の変貌と庶民の生活、そして、もう戦争は終ってしまったのに、まわりからうとんじられながら、数年後まで原爆症を引きずって生活する庶民の姿を、まるで眼前に見るように、描き切っている。なるほど、太宰治が言うように、井伏鱒二は天才作家だった。
 井伏鱒二は、決してむつかしい哲学や思想を語らない。何故なら、彼が書こうとしているのは、哲学者でも思想家でも、あるいはさまざまな学者や評論家でもなく、いかなる偉人でもなく、市井に生活する庶民の実像、そのほんとうの姿だった。だから、この作品の主人公のひとり閑間重松(註・「しずましげまつ」、と読む)は、八月十日、原爆が投下された四日後、破壊され、全身が蛆虫でボロボロ崩れる死体が転がっているヒロシマの街を歩きながら、戦争についてこう語っている。

「戦争はいやだ。勝敗はどちらでもいい。早く済みさえすればいい。いわゆる正義の戦争よりも不正義の平和の方がいい。」(165頁)

 ところで、ボクが「原爆文学」を読み続けている理由のひとつに、五年近く前、すい臓ガンで亡くなったえっちゃんの実父が、生前、ボクが三十代後半の時だったか、彼自身の口から、こんなことをしゃべっていたのを、ふと脳裏に思い浮かべたからである。
 義父は、戦中、中国の上海に派兵されたのだが、戦争末期、敗戦直前に彼が所属した東京の部隊は中国を引き上げ、九州に上陸して、原爆が投下されたヒロシマに到着したのは、原爆投下二日後の、八月八日だった。言うまでもなく、広島駅は既に破壊され、そのまま列車で東京まで通過出来なかっただろう。
 被爆者は、熱イ、熱イ、水ヲクダサイ、水、水ヲ、水ヲクダサイ……ミンナ呻イテイタヨ、トオルサン、ホント、地獄ダッタネ、デモ、ボクハ原爆症ニカカッテナイヨ、ホントニ丈夫ナンダネ……
 確かに彼は九十歳まで生き抜いたが、いつも貧血気味で、血液ガンでこの世を去っている。
 義父は、ヒロシマで救援活動もした、確かそう言っていたと思うが、ボクは、何故か、詳細にわたって聞かなかった。遠慮した。それ以上、触れようとしなかった。
 彼は、ヒロシマでいったいどんな活動をしていたのだろうか。「黒い雨」の八月十日の閑間重松の日記の中にこんな記述がある。少し長くなるが、その文章を引用して、この読書感想文の筆をおく。

 兵隊たちは次から次へと戸板やトタン板で死体を運んで来て、顔を背けてぽんと穴のなかに放りこむ。それからまた黙々としてどこかへ去って行く。兵隊はトタン板の四つの角をぐるぐるに折り曲げて持っている。上官からの命令で動いているのだろうが、どんな感慨を催しているものか、その表情では分からない。重圧感のある兵隊靴だけが感情を表に出しているようだ。穴ぼこに死体が多すぎて焔が下火になると、穴のほとりへどしりと死人を転がして行く。その弾みに、死体の口から蛆のかたまりが腐爛汁と共に、どろりと流れ出るものがある。穴のそばに近づけすぎた死体からは、焚火の熱気に堪えきれぬ蛆が全身からうようよ這い出して来る。<中略>
「この屍(むくろ)、どうにも手に負えなんだのう」
 トタン板を舁(か)いて来た先棒の兵がそう云うと、
「わしらは、国家のない国に生まれたかったのう」
 と相棒が云った。(165頁~166頁)