芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

さんげー原爆歌人正田篠枝の愛と孤独ー

 この歌人は、一九四五年八月六日の広島市内、爆心地より1.7キロの平野町の自宅で被災した時、三十四歳だった。その後、父も義兄も被爆によるガンで死亡、自身も被爆による後遺障害に責め苛まれながら、一九五六年十二月から原爆病院に入院、その時こんな歌を詠んでいる。数多くの歌の中からランダムに三首選んでみた。

 病むものは この世の外に 置かれしか 健やかなひと 忙しげなり(84頁)
 原爆で 即死せしひと 仕合せと 思うときあり 耳鳴りひどく(86頁)
 なべてみな 求めることの なくてただ やさしきこころ もちて死にたし(87頁)

 この本は、歌人正田篠枝の生涯を、その作品を中心にして生前の歌人を知る小浦千穂子が解説した貴重なドキュメントである。解説者の小浦も被災者で正田篠枝より二十歳余り若く、歌人の晩年にすべての遺稿を託された。

 「さんげー原爆歌人正田篠枝の愛と孤独ー」 編者広島文学資料保全の会 社会思想社現代教養文庫 1995年7月30日初版第1刷

 父を喪った後、生活のため、一九五二年から四年間、歌人は平野町の自宅を改造して旅館を経営する。しかし、生活は困窮を極めていたのは、これらの歌を詠めばおのずと知れる。

 雨漏りを 受ける器に 雑巾を 入れるを覚ゆ 静けき夜半に
 今日は月末支払日 わが頸 われが締める如く 空の小切手 切らねばならぬ
 嗚呼さみし さみしさみしと 百あまり 書いても心 かいなかりけり(以上三首、151頁)
 
 結局、旅館を廃業して、下宿屋に改造して経営するが、その時の状況と、歌人のやさしい気持が、さまざまな歌にあらわれている。

 屋根裏の 粗末な部屋に 居るひとが 金の要らないことを 企画している
 世の中に 金の要らない 企画たて 実行せんとするに 関心を持つ
 関心を 持ちて告げれば 母ちゃん だまされんさんなと 息子にいわれる(以上三首、157頁)

 やはりアパート経営中の歌だが、歌人の性格がこんなところにもよく出ている。毎日、日が暮れると、歌で日記を書いていたのだろうか。天性の歌人である。

 なまけ者の 如しと 思いつつ 黙しておりぬ 昼寝の床に
 アパートの 元いた学生 訪ね来る かわゆくて嬉しく ありったけの物を出す(以上二首、158頁)
 ステンレスの 炊事場に立つ 妻の座は 遂にわれには 縁なかりきか
 正月の 活花用の 南天を 捨て得ず 毎夜水さしやりぬ(以上二首、159頁)

 もともと浄土真宗の信仰が篤い歌人は、一九五四年二月十一日、得度して、法名を「涙珠」(るいじゅ)と定める。信仰の色濃い歌も数多く歌っている。

 一期一会 覚悟をせねば ならぬ身が また会える日の ありやを思う(172頁)
 いくたりか この病室の ベッドにて 死にしを思い 白き壁みる
 祈りでも ねがいでもなき 念仏を ひとは知らざり ひそととなうる(以上二首、175頁)

 一九六三年九月、九州大学医学部付属病院第一外科で、細胞検診の結果、原爆症による乳がんであり、転移もすすんでいて、治療をしても来春までの命だと正田篠枝は診断される。歌人は手術や放射線治療を拒否して、その後、一年八ヶ月余りを生きる。享年五十四歳。

 広島には デラックスな 焼場できたのよと 告げたれど 友は黙しぬ(222頁)
 これの世の ひと頼らぬぞと 思う身に あれどひつぎに ひとりは入れず(227頁)
 原爆症と 乳がんのことは 忘れおり ただひたすらに 名号を書く時(235頁)
 ピカ以来 耳鳴りひどく なるばかり かもめもすずめも 鳴かず飛ぶのみ(237頁)
 遺言を 書いておけよと 言い給う ひとがありたり 死にたくないのに(239頁)

 ここまでボクは正田篠枝という広島で被爆した歌人のアウトラインをたどってみたが、一番肝要の事柄は書いていない。周知のとおり、この歌人は、一九四七年十月に秘密出版した正田篠枝私家版歌集「さんげ」百首の歌によって、この世に言葉を刻んだ。しかし、歌人が命を賭して書いた「さんげ」は読んでいただく以外、説明不能の言葉である。