芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

「KAIGA」120号を読む。

 この詩誌は、四人の作家、十篇の詩で構成されている。その内の一人、河野晋平は物故の作家だった。    「KAIGA」No.120 編集発行人 原口健次 2022年7月31日発行    編集発行人とはず

「リヴィエール」183号を読む。

 この詩誌を読んだ。    「リヴィエール」183号 発行所 正岡洋夫 2022年7月15日発行    十六人の作家の作品十八篇、六人の作家のエッセイ六篇か掲載されている。  過去とそれに応答する現在

親水公園にて その28

人間は 孤独だから 言葉が あるのかもしれない   孤独だから 話しかけるのかもしれない   孤独だから 好きだと言うのかもしれない   孤独だから 無言で あなたと愛しあうのかもしれない

親水公園にて その27

木の下に立って 好き を考えていた…… 少年時代 トカゲ 好き ヘビ トンボ ホタル カブトムシ チョウ 好き ……モンキチョウ モンシロチョウ アゲハ キアゲハ クロアゲハ ベニシジミ…… 十代から大人になって もっと

親水公園にて その26

 一九六九年秋。私がSのアパートで遊んだのは、あれが最初で最後だった。  遊んだ? いや、私たち二人はじっと見つめあったままだった。三つくらい年上の彼女はベッドの縁に座って私を見上げ、まだ二十歳だった私は勉強机の前に立っ

D.クーパーの「家族の死」

 もうずいぶん古い話だが、一九七〇年前後の頃、個人的に言えば私が二十歳になるかならないか、そんな頃のお話だが、「家族帝国主義」という言葉があった。今でもこの言葉が残っているのかどうか、私は詳らかにしない。それはとにかく、

親水公園にて その25

あの女に 手紙を書いていた   無視されるのは わかっていた   それでも 書いていた   きょうも この木の下に立っていた 手紙を出したのを 後悔して     *お昼過

虫の息

 あの女は巨大だった。私は毎晩、彼女の手のひらの上で寝ていた。  だが、状況が徐々にわかってきた。決してあの女が巨大なのではなかった。姿見に映った私はゴキブリだった。彼女はゴキブリが怖くて、嫌悪していた。明るい台所で私を

親水公園にて その24

愛したために 待つことを覚えた   愛したために 死を恐れなくなった   愛したために すべてを投げ出そうとした   愛したために 捨てられることを知った     *写真

親水公園にて その23

あなたといっしょにいるのが とても楽しくて   別れるなんて 心に浮かびもしなかった これっぽっちも!   そうなんだ 長い歳月 愛しあったので もう 愛しあうことしか出来なかったんだ  

頭 覚醒

頭が澄んでいる 透明な空間が拡がっている 光っている 2022.9.5.23:54 頭 緊張 このまま 破砕するのではないか 破砕…… 2022.9.6.03:34 頭 覚醒 2022。9.6。03:50

眉間

 洗濯機だとばかり思っていた。  衣類を投げ込んだ時、思った以上に底が深いのに気が付いた。そればかりではなかった。穴は垂直な小さい空間ではなく、かなり深く、横にも広がっていて、果てが見えなかった。薄暗く、荒れ果てた、広大

親水公園にて その22

あなたがもうこの世にいなくても 雲はきれい   この空も この雑木も また 足もとに咲くこの九月の花も   きれいは きれいだった     *今日のお昼ごろ、いつものように親水公園

ミシェル・フーコーの「精神疾患と心理学」

 私はこれまで、デヴィッド・クーパーの「反精神医学」、ロナルド・D・レインの「自己と他者」、また、彼等に影響を与えたサルトルの「方法の問題」、こういう順序で三冊の本を読んできた。これらの著作に共通して主張されている事柄は

親水公園にて その21

この歳になって わたしにも やっと わかった   誰でも みんな 自分なりに けんめいに 生きてるんだ   よし わたしも 今夜 あの女に手紙を書こう     *夕方、五時過ぎ、親

親水公園にて その20

大切な人を 喪うということは   自分の中心が 穴になることだ   その穴には 八年間 毎日 苦痛が座っている   けさも 苦痛はあぐらをかいたままで おはよう なぜか優しく そう言った &

「芦屋芸術十五号」が出来ました!

 本日、「芦屋芸術十五号」が出来ました。内容は以下の通りです。     カアカアと、このひとときを(続)   詩画集 原始の領域から   暗中を模索する その4    以上、三篇を収録しています。執筆

親水公園にて その18

あの女に 手紙を書いていた   炎天下 毎日 公園を歩きながら   頭の中で何度も書いていた そして 何度も消していた     *真昼、親水西公園の池のほとりに立って、終わりゆく夏

親水公園にて その17

愛は 言葉ではなかった   鯉も そうだった     *午後六時ごろ、親水西公園の池の鯉をスマホで撮った。まだ空は明るく、辺りは澄みわたり、この夏初めての涼しくてひたひたした夕暮れだった。も

サルトルの「方法の問題」

 先日読んだデヴィッド・クーパーの「反精神医学」、ロナルド・D・レインの「自己と他者」、この論述を読んでいて、彼等より十五年前後人生の先輩の哲学者の名前が出てきた。おそらく彼等が家族という存在を思索する導きの糸として影響

親水公園にて その16

芦屋の海に近い公園の片隅で 私は片隅なりの詩を書いている   好きなら 好きだ きれいなら きれいだ そう書いている   雲や木や風 そこに生きるあの女とお話しをする それが片隅の詩だ  

亀と三十三年半、反復した!

 雨が朝方に止んだので、曇天の下、七時過ぎ、亀の池の掃除を始めた。  池を洗っている間、きょうはなぜか私の足元にくっ付いて彼は離れようとしない。作業も後半になって、やっといつものように庭中あちらこちら散歩しだした。今度は

何故

 どうして二派に分かれて争っていたのか、私にはわからなかった。ただわかっていることは、投石や火炎瓶が渦巻き、見知らぬ暴徒が殺到する中で、私自身も争い続けていたのだった。  夜の街、いや、あれを夜の街というのか、だだっ広い

野間明子の「襤褸」

 友人山中従子の縁で、こんなステキな詩集を読むことが出来た。    「襤褸」 野間明子著 七月堂 2022年7月17日発行    この詩集の特徴は、昔綺麗な濃い空色だった薄紙がいまや変色して灰色に汚れ

親水公園にて その14

親水公園の 木立の奥から あの女が浮かんで 両脚は定かでないが こちらに向かって 笑みを描いて やって来る   狂っているのか     *夜来の雨は朝方にはあがって、降りそうでいて降らない、

親水公園にて その13

不幸を 幸福に変えることはできない だけど 不幸を表現することはできる   そのことをまた 再確認していた しばし橋の前で 空を仰いでいた     *もう夏の終わりが近づいたのか、朝から激し

R・D・レインの「自己と他者」を読む。

 先日読んだ「反精神医学」の著者デヴィッド・クーパーと反精神医学運動を共にしたこの人の本を開いてみた。    「自己と他者」 R・D・レイン著 志貴春彦、笠原嘉訳 みすず書房 2000年5月19日第22刷 &n

親水公園にて その12

 この夏は例年になく暑い日が続いた。それでも真夏日や猛暑日の真昼時、わたくしは毎日親水公園を抜けて芦屋浜まで歩いている。浜の東北端のあずまやから海と空と雲をみつめている。右後方には、入道雲を背後にして六甲山が立っている。

亀さん、現行犯逮捕!

 けさ、七時半ごろから、亀の池の掃除を始めた。ご飯の食べ残しや、彼の汚物、夏の炎天下、一週間前後にわたる水の腐敗。ポリエチレンの池の壁面や底砂をキレイにととのえるのに、毎回、おおよそ四十分を費やしている。その間、亀は自由

いのちの火

まだ燃えていた あなたがいて また もうあなたがいない場所には 骨だけが残り 座っていた 笑っていた 確かに まだ燃えている わたしのこころと あなたの骨が 未明 輝きあって 重なりあって やわらかく開き ついに ふたつ

クーパーの「反精神医学」を読む。

 先日、「臨床精神薬理」第25巻4号(星和書店、2022年4月10日発行)を読んだ。また、その読書感想文を「芦屋芸術」のブログに私は書いた。結論から言えば、所謂「統合失調症」という病の原因は不明だった。あれこれ推論はある

亀と白いキキョウ(続続続)

 朝方、豪雨がやって来た。しかし私は、この土曜日の午前中に二つのお願いを胸に秘めていた。  一つのお願いは、週に一回やっている、庭の池の掃除をやりたかった。もう一つのお願いは、洗濯だった。九時前にはパラつく程度の空模様に

親水公園にて その6

夏の 朝 かよいなれた小径 ここでは 雑木と風と蝉が交響してる   ソレは サーミン ザワミン ザクミン だ     *写真は、朝九時過ぎ、親水中央公園から親水西公園へ向かう小径。

親水公園にて その5

この道を 十九年間 ほとんど毎日歩いた   十一年間は ふたりで 残る八年は ひとりだった     *朝九時過ぎ、我が家の南、親水公園の散歩道をスマホで撮った。芦屋浜にもこの道を歩いて出た。

親水公園にて その3

雲は にぎやかだ そう思うときもあり   雲は さびしい そう思うときもあった   雲は きれいなあ きょうはそう思った     *親水公園から、正午の空を撮った。

「臨床精神薬理Vol.25,No4Apr.2022」を読む。

 まったく個人的な理由だが、私は所謂「統合失調症」に深い関心を持っている。「芦屋芸術」のブログにもヤスパースやビンスワンガー、ミンコフスキーのこの病に関する論文の読書感想文を書いた。また、周知のとおり、ヘルダーリンやスト

親水公園にて

 空は  ひとりぼっちなのに  たくさんの雲を  受け入れている  とても不思議だった    *写真は、近所の親水公園で。炎天下の真昼、木陰から空を撮った。

芦屋の花火大会

 昨夜の七時四十五分から八時半まで、近くの芦屋浜で久しぶりに花火大会があった。このところ、毎年恒例だった花火大会がコロナで中止になっていた。  暗い空で破裂し散乱する豪華な火花を、道路の脇に座って、私は見あげていた。

スライスされたもの

 体は冷たくなっていた。  先ほどまではまだガタガタ震えていたのだが、ぴたりと静止したまま、カチカチ固くなっていた。また、絶え間なく刻む音がした。それは時計の秒針ではなく、刃物に似た鋭い先端がカチカチ固まってしまった体を

えっちゃん、カアカアが来たよ!

 雨中の食後、小半時くらいして、カアカアは我が家のウッドデッキまで遊びに来ました。きょうは亡妻えっちゃんの八年目の命日です。私は仕事を休んでいました。雨風をいとわず、カアカアは足を運んでくれました! えっちゃん、カアカア

カアカア、風雨の中で。

 強い風雨の中、午前十一時半ごろ、カアカアが来た。吹き飛ばされそうな傘を手に、庭の食卓に彼のご飯を置いた。うれしそうな眼でじっと私を見つめながら、顔を上下させて、彼はそれを食べていた。