芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

使者

<Ⅰ>

 言うまでもなく彼は憔悴していた。使者に任命されたのは確かだった。眠っているとき、編み笠を被った得体のしれない人間が彼の右肩の側に立ち、赤い封筒を枕元に置いた。「あの女に届けよ」。低い乾いた声。命令が下され、しばらく呆然としていたが、もう一度見あげた時には、得体のしれない人間は消えていた。ただ彼の脳裏にはザラザラした雑音が支離滅裂に不愉快千万なBGMを演奏する中で、「あの女に届けよ」、「この赤い封筒を」、低い乾いた声のリフレインをいつまでも残したまま、編み笠は去っていた。ベッドに寝転んで深夜の天井を見つめ、まんじりともしなかった。彼に厳しい宿命が訪れたのだ。もう一度眠ろうとしても眠れなかった。赤い封筒。脳を駆け回るこの雑音。あの女? いったい誰だ。何処に住んでいるのだ。命令を拒否しようとすればするほど、荒い砂をザラガリザラガリ噛み続けている気持がするのだった。それは激しく彼を糾弾する音だった。嘲笑と絶望が交錯するカオスの演奏会だった。

 

<Ⅱ>

 編み笠の命令を無視しようとすれば、ザラザラした雑音が激しくなって、脳天から両足の親指まで体全体を荒い砂が駆け巡り、弾け飛び、臓器と混ざり合って、グジャグジャしたり、ガジャガジャするのだった。何という演奏会。ジャリジャリになった砂を洗い落とすために、水も飲んでみた。水道の蛇口を口に突っ込んで、一心不乱に洗い流そうとして集中したが無駄だった。一升瓶の日本酒を唇にはさんで一気に飲み干してもみた。たまらず流し台にうつぶせになって吐き出した。逆効果だった。ザラザラした騒音は轟音になって身を切り裂いた。ザラザラザラザラ。ブハッ。噴きあがって、両耳の穴から、鼻の穴から、砂があふれ出ていた。もう首を切り落として雑音から逃れる以外に治療法はないんだ! 彼はベッドから跳びはねて、叫んだ。斬首刑か、それとも、土下座して、編み笠の命令に従うのか。

 

<Ⅲ>

 既に小走りになっていた。

 野原だと思うと、谷間だった。滝が落ちて、水流が岩を打ち、走り続ける彼の背中にまでしぶきをあげていた。だがそれはビルの谷間だった。両側には商店街が並んでいるが、ひっそりとして、無人の車が走っている。すぐ先は山の頂上のレストランで彼は空腹を覚えて右手にパスタが垂れたフォークを握っていた。フォークを落とすと、一時間後に、カチンと音がした。転落してしまった。もはや過去に戻ることも未来へ進むことも不可能だった。海は騒いでいる。いや、荒れ狂っている。このままでは溺死する。助けてくれ! 彼は生まれて初めて、必死で、心の底から救いを求めていた。このままでは、あの女の住まいが不明のまま、赤い封筒を手にして、溺死する。これはワカメだろうか。彼は藻が繁茂する森の海底迷路をかき分けながら、自問自答を呪文のように繰り返していた。ひょっとして「あの女」とは? 昔愛しあった彼女のことではないだろうか。もう一度彼女を求めて、探しあて、さあ受け取ってくれ、この「赤い封筒」を、手渡し、抱きしめるのではないか。まだお前を愛している、耳もとでささやいて。だがしかしこの封筒の中にはいったい何が入っているのだろう。だがしかしこれは密書だ。だがしかし、いったい何が。……だがしかし、だがしかし……だがしかし開けてはならないのだ。絶対見てはならないのだ。絶対! さもなくば斬首刑! 彼女だけが開封する、ただ一つの手紙なのだ!

 

<Ⅳ>

 背後で「光輪」と呼ぶ声がした。彼の戒名なのか。だとすれば彼は使者ではなく「死者」なのだ。それともどこかで光の輪が輝いているのだろうか。体内か。体外のどこか、木星の裏側にでも。あるいは、彼には見えない後頭部に。それにしても、聞き覚えのある声。あの声だ。ひょっとしたら彼女が隣の部屋にいて、彼の様子をうかがっているのかもしれなかった。

 数時間が経ったのか、それとも数か月か、数年か、混乱した頭には知性や認識力が衰滅して現状の認知は不可能だった。見れば「赤い封筒」は「薄紅色」に変色し、今ではすっかり色あせて灰茶色になっていた。紙の繊維が崩れて、このままではいずれバサバサしながら塵になって消滅するに違いなかった。「赤い封筒」だけではなかった。臓器も、荒い砂も、BGMも、蛇口も、谷間も、得体のしれない人間も、後頭部も、彼女も、そして彼でさえ、この物語に登場したものすべてみな、こうして死んでいくのが彼にはわかった。

 足もとに編み笠が転がっていた。既に密書は見る影もなく破れ、崩れ、恐るべき事実だが、封筒の中には何もなかった。空だった。編み笠を拾い頭に乗せた。そのまま彼は砂漠に倒れた。まだ夜明け前だった。あれはオリオン座か。編み笠を被った得体のしれない人間は、ついにこの俺自身だった。ようやく彼は了解した。せいぜい一時間、一歩譲っても二時間足らずだった。今夜の夢は終わっていた。

 彼は死んだ。好きで死んだわけではなかった。当たり前じゃないか。死は考えるものではなかった。いくら考えてもわからなかった。突然そばまでやって来るのだった。