もうずいぶん古い話だが、一九七〇年前後の頃、個人的に言えば私が二十歳になるかならないか、そんな頃のお話だが、「家族帝国主義」という言葉があった。今でもこの言葉が残っているのかどうか、私は詳らかにしない。それはとにかく、
D.クーパーの「家族の死」
芦屋芸術は詩・小説・文学・音楽・絵画・・・etc 芸術誌の発行とWEBでの表現を展開する芸術コミュニティサイトです。
もうずいぶん古い話だが、一九七〇年前後の頃、個人的に言えば私が二十歳になるかならないか、そんな頃のお話だが、「家族帝国主義」という言葉があった。今でもこの言葉が残っているのかどうか、私は詳らかにしない。それはとにかく、
あの女に 手紙を書いていた 無視されるのは わかっていた それでも 書いていた きょうも この木の下に立っていた 手紙を出したのを 後悔して *お昼過
あの女は巨大だった。私は毎晩、彼女の手のひらの上で寝ていた。 だが、状況が徐々にわかってきた。決してあの女が巨大なのではなかった。姿見に映った私はゴキブリだった。彼女はゴキブリが怖くて、嫌悪していた。明るい台所で私を
愛したために 待つことを覚えた 愛したために 死を恐れなくなった 愛したために すべてを投げ出そうとした 愛したために 捨てられることを知った *写真
あなたといっしょにいるのが とても楽しくて 別れるなんて 心に浮かびもしなかった これっぽっちも! そうなんだ 長い歳月 愛しあったので もう 愛しあうことしか出来なかったんだ
頭が澄んでいる 透明な空間が拡がっている 光っている 2022.9.5.23:54 頭 緊張 このまま 破砕するのではないか 破砕…… 2022.9.6.03:34 頭 覚醒 2022。9.6。03:50
洗濯機だとばかり思っていた。 衣類を投げ込んだ時、思った以上に底が深いのに気が付いた。そればかりではなかった。穴は垂直な小さい空間ではなく、かなり深く、横にも広がっていて、果てが見えなかった。薄暗く、荒れ果てた、広大
あなたがもうこの世にいなくても 雲はきれい この空も この雑木も また 足もとに咲くこの九月の花も きれいは きれいだった *今日のお昼ごろ、いつものように親水公園
私はこれまで、デヴィッド・クーパーの「反精神医学」、ロナルド・D・レインの「自己と他者」、また、彼等に影響を与えたサルトルの「方法の問題」、こういう順序で三冊の本を読んできた。これらの著作に共通して主張されている事柄は
この歳になって わたしにも やっと わかった 誰でも みんな 自分なりに けんめいに 生きてるんだ よし わたしも 今夜 あの女に手紙を書こう *夕方、五時過ぎ、親
大切な人を 喪うということは 自分の中心が 穴になることだ その穴には 八年間 毎日 苦痛が座っている けさも 苦痛はあぐらをかいたままで おはよう なぜか優しく そう言った &
きょうも 孤独だった それが私の 習慣だった *写真は、午後五時過ぎの芦屋浜。八月の終わり。
本日、「芦屋芸術十五号」が出来ました。内容は以下の通りです。 カアカアと、このひとときを(続) 詩画集 原始の領域から 暗中を模索する その4 以上、三篇を収録しています。執筆
あの女に 手紙を書いていた 炎天下 毎日 公園を歩きながら 頭の中で何度も書いていた そして 何度も消していた *真昼、親水西公園の池のほとりに立って、終わりゆく夏
愛は 言葉ではなかった 鯉も そうだった *午後六時ごろ、親水西公園の池の鯉をスマホで撮った。まだ空は明るく、辺りは澄みわたり、この夏初めての涼しくてひたひたした夕暮れだった。も
先日読んだデヴィッド・クーパーの「反精神医学」、ロナルド・D・レインの「自己と他者」、この論述を読んでいて、彼等より十五年前後人生の先輩の哲学者の名前が出てきた。おそらく彼等が家族という存在を思索する導きの糸として影響
芦屋の海に近い公園の片隅で 私は片隅なりの詩を書いている 好きなら 好きだ きれいなら きれいだ そう書いている 雲や木や風 そこに生きるあの女とお話しをする それが片隅の詩だ
雨が朝方に止んだので、曇天の下、七時過ぎ、亀の池の掃除を始めた。 池を洗っている間、きょうはなぜか私の足元にくっ付いて彼は離れようとしない。作業も後半になって、やっといつものように庭中あちらこちら散歩しだした。今度は
どうして二派に分かれて争っていたのか、私にはわからなかった。ただわかっていることは、投石や火炎瓶が渦巻き、見知らぬ暴徒が殺到する中で、私自身も争い続けていたのだった。 夜の街、いや、あれを夜の街というのか、だだっ広い
芦屋浜 夏の終わり UFOのような雲 いっぱい *東北端のあずまやから、芦屋浜の東南端をスマホで撮った。
友人山中従子の縁で、こんなステキな詩集を読むことが出来た。 「襤褸」 野間明子著 七月堂 2022年7月17日発行 この詩集の特徴は、昔綺麗な濃い空色だった薄紙がいまや変色して灰色に汚れ
親水公園の 木立の奥から あの女が浮かんで 両脚は定かでないが こちらに向かって 笑みを描いて やって来る 狂っているのか *夜来の雨は朝方にはあがって、降りそうでいて降らない、
不幸を 幸福に変えることはできない だけど 不幸を表現することはできる そのことをまた 再確認していた しばし橋の前で 空を仰いでいた *もう夏の終わりが近づいたのか、朝から激し
先日読んだ「反精神医学」の著者デヴィッド・クーパーと反精神医学運動を共にしたこの人の本を開いてみた。 「自己と他者」 R・D・レイン著 志貴春彦、笠原嘉訳 みすず書房 2000年5月19日第22刷 &n
この夏は例年になく暑い日が続いた。それでも真夏日や猛暑日の真昼時、わたくしは毎日親水公園を抜けて芦屋浜まで歩いている。浜の東北端のあずまやから海と空と雲をみつめている。右後方には、入道雲を背後にして六甲山が立っている。
炎天下 芦屋浜まで 歩く 誰もいない 真昼 ズックの靴音が 聴える *親水中央公園の西南端のあずまやから、スマホを北東へ向けた。
けさ、七時半ごろから、亀の池の掃除を始めた。ご飯の食べ残しや、彼の汚物、夏の炎天下、一週間前後にわたる水の腐敗。ポリエチレンの池の壁面や底砂をキレイにととのえるのに、毎回、おおよそ四十分を費やしている。その間、亀は自由
木の夢 私はこの木と同じだ 孤立している
君は何も考えない 光と風に触れている *真昼の炎天下、木を撮った。昼と夕、毎日散歩で出会う木だった。
雲は生きているのかもしれない ボクの中で *午後六時ごろ。きょうもまた親水公園を抜け芦屋浜に出て、堤防の西端から東の空を撮った。
まだ燃えていた あなたがいて また もうあなたがいない場所には 骨だけが残り 座っていた 笑っていた 確かに まだ燃えている わたしのこころと あなたの骨が 未明 輝きあって 重なりあって やわらかく開き ついに ふたつ
何も 浮かばなかった 雲が 浮かんでいた *盆前の休日、午後零時過ぎ。木陰の下、涼しい風の通り道に立ち、雲を撮った。
先日、「臨床精神薬理」第25巻4号(星和書店、2022年4月10日発行)を読んだ。また、その読書感想文を「芦屋芸術」のブログに私は書いた。結論から言えば、所謂「統合失調症」という病の原因は不明だった。あれこれ推論はある
朝方、豪雨がやって来た。しかし私は、この土曜日の午前中に二つのお願いを胸に秘めていた。 一つのお願いは、週に一回やっている、庭の池の掃除をやりたかった。もう一つのお願いは、洗濯だった。九時前にはパラつく程度の空模様に
夏の 朝 かよいなれた小径 ここでは 雑木と風と蝉が交響してる ソレは サーミン ザワミン ザクミン だ *写真は、朝九時過ぎ、親水中央公園から親水西公園へ向かう小径。
この道を 十九年間 ほとんど毎日歩いた 十一年間は ふたりで 残る八年は ひとりだった *朝九時過ぎ、我が家の南、親水公園の散歩道をスマホで撮った。芦屋浜にもこの道を歩いて出た。
夕風に 揺れる ひまわりの花々 わたしたちが別れた 七月の終わり *親水公園の東端にある花壇、ひまわりが満開だった。
雲は にぎやかだ そう思うときもあり 雲は さびしい そう思うときもあった 雲は きれいなあ きょうはそう思った *親水公園から、正午の空を撮った。
まったく個人的な理由だが、私は所謂「統合失調症」に深い関心を持っている。「芦屋芸術」のブログにもヤスパースやビンスワンガー、ミンコフスキーのこの病に関する論文の読書感想文を書いた。また、周知のとおり、ヘルダーリンやスト
雲は 空に住み 人は 地に住んでいる *写真は、朝九時過ぎ、親水公園の木陰から、空と、雲を、スマホで撮った
空は ひとりぼっちなのに たくさんの雲を 受け入れている とても不思議だった *写真は、近所の親水公園で。炎天下の真昼、木陰から空を撮った。
昨夜の七時四十五分から八時半まで、近くの芦屋浜で久しぶりに花火大会があった。このところ、毎年恒例だった花火大会がコロナで中止になっていた。 暗い空で破裂し散乱する豪華な火花を、道路の脇に座って、私は見あげていた。
体は冷たくなっていた。 先ほどまではまだガタガタ震えていたのだが、ぴたりと静止したまま、カチカチ固くなっていた。また、絶え間なく刻む音がした。それは時計の秒針ではなく、刃物に似た鋭い先端がカチカチ固まってしまった体を
雨中の食後、小半時くらいして、カアカアは我が家のウッドデッキまで遊びに来ました。きょうは亡妻えっちゃんの八年目の命日です。私は仕事を休んでいました。雨風をいとわず、カアカアは足を運んでくれました! えっちゃん、カアカア
強い風雨の中、午前十一時半ごろ、カアカアが来た。吹き飛ばされそうな傘を手に、庭の食卓に彼のご飯を置いた。うれしそうな眼でじっと私を見つめながら、顔を上下させて、彼はそれを食べていた。
本日未明、三時過ぎに起床。表紙から作品、編集後記まですべてを見直し。若干の修正をして、「芦屋芸術十五号」の編集・校正を完了。ワードの原稿をPDFに変換して印刷会社に送ればもういつでも本に出来る。 ただ、七月に入って急
ハイネの「ドイツ古典哲学の本質」で民話について言及されていたことは既に私はブログに書いた。また、それに触発されて先日読んだ岩波文庫の「日本昔ばなし」全三冊の流れの中で、さらに日本の民衆の考え方・感じ方を学ぼうと、この本
商店街に来て気づいたことがある。 商店街には人気がない、誰もいない。さまざまな店が並んでいるが、看板が見当たらない。店名がわからない。何を営んでいるのか、どんな商売をしているのか、そもそも店を開いているのかどうか、ま
「芦屋芸術十五号」を出版します。 発行予定日は九月二日です。 作品は以下の三篇です。 ・カアカアと、このひとときを(続) ・原始の領域から ・暗中を模索する その4 作品は
明日の予定だった庭の池の掃除を、今日することにした。明日は近所の親水公園の花壇の手入れ。おそらく十時前後からお昼の十二時を過ぎるだろう。この暑さではとても池の掃除まで手が回らない。手を出すと、倒れるかもしれない。熱中症