芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

ナガルコットの丘

まだ日没には半時余りあったが、屋上の展望台は風が吹き抜けていて、手摺りに背をもたせて立っている若い女の長い髪が揺らめいている。その乱れた髪の中からボクを見てニッコリ笑った。
「どこから来たの」
「東京」
やはり日本人だった。標高二千メートルを超える尾根の最奥にあるホテルビューポイントの宿泊客にはボクとそのワイフ以外、日本人はいないはずだった。
霧が出て、眼下のカトマンズ盆地は乳白色の海のようにふわふわ波打っている。ヒマラヤ連峰も靄に閉ざされて手前のおそらく三千メートル級の山さえぼんやりして、その奥はわからない。
若い女、あとから彼女は十八歳で建築を専攻している学生だとわかったが、格安航空券だけを予約してホテルは現地で探しながらインドを回り、きのうネパールのトリブヴァン国際空港を降り立ち、その足でカトマンズのツーリストエリアとして賑わうタメル地区のホテルに投宿した。宿泊料金もかなりねばってプライスダウンさせたらしい。寺院ばかり見て歩いているというが、インドではかなりヤバイ地区さえ一人旅だ。あしたはカトマンズから約二百㎞離れたポカラまでバスで行くという。
「きのうまでボクらはポカラにいたんだ」
「山、見えた?」
「朝早くサランコットの丘へ行けばもちろんよく見えるけど、でも午前中ならポカラの街からアンナプルナ連峰、とりわけマチャプチャレがとてもよく見えた」
結局、午後六時半を過ぎても辺りは霧と靄に包まれたまま、夕焼けにきらめくヒマラヤ連峰は見えない。風が激しくなってときおり彼女の顔を乱れ髪が隠している。暗くなってきて、気温も下がって、両手でダウンの襟を合わせ、
「そろそろカトマンズに帰ります」
「気をつけて」とボクのワイフ。
「じゃあ、また」
「またね」
展望台の階段の前で足を止め、不意に振り向いて、
「さよなら」
彼女のいなくなった暗い階段の降り口にまだあの笑顔だけが。