芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

現代絵画のいま。グレコ展。

11月18日夜、エジプトから帰国して、ずっと身体の調子が良くない。帰路がカイロから深夜ドーハ経由のカタール航空だったので、といってカイロから直行便のエジプト航空だとイスラムの戒律により搭乗中いっさい酒類は出ないし、疲労と時差ボケを残したまま、11月23日に客先のゴルフコンペに参加。体調不良のまま、グスタフ・マイリンクの「レオンハルト師」やエリファス・レヴィなどのオカルティズムなど、それにボードレール全集第4巻を読み進むうち、美術評論「1859年のサロン」のクリストフの彫刻への言及とその彫刻に触発されて書き「悪の華」に収められた「仮面」「死の舞踏」、この二篇の詩を照合している間に、精根尽き果てたか。

まあ、それでも、ふらふらしながら、ふたつの美術館へ行った。

「現代絵画のいま」 兵庫県立美術館 10月27日~12月24日

これらの作品の中で、特に私は映像を中心にした作品、大崎のぶゆきと石田尚志の不気味な映像、大崎のぶゆきに至ってはグロテスクとその悲哀感まで滲み出て、名状しがたい味わいがある。また、三宅砂織のデフォルメされた「絵画写真」とでも言える世界、その上、陳列された順序にも微細なこだわりを見せ、奥へ進むにしたがって認識が深まる構成に感心した。惜しむらくは、こういった企画では会場が閑散している。人々の芸術作品に対する事大主義、言い換えれば自分の眼で判断せずマスコミあるいはそれに類する目線の後を追う悲喜劇が上演されているのか。

「エル・グレコ展」 国立国際美術館 10月16日~12月24日

こちらのほうはどうだ。私は12月5日水曜日、午前中大阪の十三と立売堀で仕事をした後1時過ぎに行ってみたが、かなりの人ごみである。私の友人のM夫人は、12月1日土曜日に行ったところ、人の波でゆっくり絵を見るどころではなかった、そんな状況をおはがきで伝えてくれた。

新聞やチラシにも書かれている通り世界的な巨匠である画家に私のような愚民が何か付け加えるものがあるはずもないけれど、例えばこの展覧会で、パウロやアウグスティヌスの肖像画が展示されているが、おそらくこの会場に足を運んでいる人々は少なくとも「使徒行伝」や「ロマ書」くらいは読み、アウグスティヌスの「告白」くらいは読んでいるのだろう。私は巨匠に対して礼を失してしまうのも恐れず敢えて言えば、パウロもアウグスティヌスも細面のやさ男なのでガッカリした。自分自身のお勉強不足を恥じる次第だった。ただ少なくともこれだけは言っていいのではないか。今回の展覧会の作品を見る限り、グレコは聖母崇拝のプロパガンダではないか。彼が世間を渡り歩いた末のスペインの生き様が作品に投影されているのではないか。

私は福音書記者のイエスの十字架に関する記事を読んでいて、父なる神は人の子イエスを捨てた、絶対否定したのだと考えている。それはともかく、グレコの十字架のイエスはまさに恍惚境へ入らんとする寸前の姿に思えて仕方ない。余りに人間的である。唐突に聞こえはするが、ここでグリューネヴァルトのイエス磔刑図をそっと横にならべてほしい、そんなふうに言いたくなる場面である。