芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

「彼方」

どうしてユイスマンスの「彼方」をいままで読まなかったのだろう。40年前後昔の話になって恐縮してしまうけれど、ユイスマンスに関して言えば、確かに僕は2冊の本を読んだ記憶がある。

「さかしま」(澁澤龍彦訳、昭和48年5月10日初版、桃源社)
「腐爛の華」(田辺貞之助訳、1972年11月20日、薔薇十字社)

周知の通り「さかしま」は1884年に出版されたユイスマンスの中ではもっとも有名な作品だろう、少なくともこの日本では。簡単に言えば、彼が所属するゾラの自然主義グループを否定して、耽美主義的生活をほとんど極限値まで言葉によって実験する作品と言っていいと思う。

一方「腐爛の華」はグリューネヴァルトの「キリスト磔刑図」の創作手法を聖女リドヴィナに応用し言語結晶させたと言っていい、さらにわかりやすく言えば、絶対否定された人体、十字架のイエス、それは変色し腐爛する死体、既に脳死して精神的な事柄が完全に消去された物体に過ぎないのだが、そこに聖なるもののあらわれを視るであろう。

いずれの作品も高貴である。そのうえ二作品とも素晴らしい翻訳であり、特に「腐爛の華」を読み終えた時、おそらくユイスマンスといえどこれ以上の作品は書けないであろうと四十年前に独断し、ついに「彼方」へ手を出さずに今日に至った、そんな記憶が残されている。

余談ではあるが、翻訳に関して言えば、僕のように個人事業主で世間を渡り、無芸無能者が文学を趣味するケースでは、原典で作品を読むのはほとんど不可で、ひっきょう翻訳本が一般だった。しかし、ひとたび翻訳者の労苦に思い及ぶと、それなりの楽しみ方があるのだと思う。例えば「秋」という季節感覚についていえば、明治以降、もっとも西洋的に感じられる「秋」を翻訳したひとりに二葉亭四迷がいる。

鳩が幾羽ともなく群をなして勢込んで穀倉の方から飛んで来たが、フト柱を建てたやうに舞ひ昇ッて、さてパッと一斉に野面に散ッた……ア、秋だ! 誰だか禿山の向ふを通ると見えて、から車の音が虚空に響きわたッた……(「あひびき」岩波文庫29頁)

明治21年7・8月「國民之友」に発表されたこのツルゲーネフの作品を読めば、いかにも新しい時代を告げる「秋」の鮮やかで透明な気配が響いてくる。

緑より黄に、黄より紅に
又黄金色より黄金のいろに
木木の梢の老い行けば、われは
秋より秋に散りて行くわが「過去」を思ふ。
(アンリイ・ド・レニエエ「秋」永井荷風訳)

何処にか、人ありて、急ぎ棺に釘する如し。
誰が為の棺ぞ? きのふ夏なりき、さるを今し秋!
この神秘めくもの音は、何やらん、出発の如くにひびく。
(ボードレール「秋の歌」堀口大學訳)

こんな思い出深い「秋」もあった。小林秀雄訳の「地獄の季節」である。もちろんランボオ作であるのは言うまでもないが、引用するのはもっとも入手しやすい1970年改版岩波文庫50頁、「別れ」から。

もう秋か。……それにしても、何故に、永遠の太陽を惜しむのか、俺たちはきよらかな光の発見に心ざす身ではないのか、……季節の上に死滅する人々からは遠く離れて。
秋だ。俺たちの舟は、動かぬ霧の中を、ともづなを解いて、悲惨の港を目指し、焔と泥のしみついた空を負う巨きな街を目指して、舳先をまわす。……(以下略)

何という世紀末の哀歌だらう。1873年8月頃に書かれたとしたら、ランボオ18歳の作品だが。この「秋」もまた鮮烈な響きで読者の脳裡に騒擾するだろう。
こういった明治以降の「秋」の翻訳の歴史とそこに重層するイメージの中から、もちろんそれだけがすべてではないにしても、新しい「秋」が創作されている。

この男 つまり私が語りはじめた彼は 若年にして父を殺した その秋 母親は美しく発狂した
(田村隆一「腐刻画」第二連)

1956年に発行された田村隆一の詩集「四千の日と夜」には、あちらこちらでハ短調のピアノソナタのような「秋」のイメージが散りばめられている。敗戦後、西欧の秋と日本の秋がついに底辺で合流し始めたのだろうか。だが、日本古来から、こんな「秋」もある。

見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮れ

僕なんかは、この「秋」は極めて人工的に作られた気がして、西洋的とも日本的ともいえない、手品の舞台を観るようだ。藤原定家の作品全体に僕が感じるのは究極の手品師が演じるあやかしの技。また、「花も紅葉もなかりけり」という否定的言辞による舞台構成は、こんなところにまで奥義の命脈を保ち続けている。

貴女は貝でもない 雉でもない 猫でもない
さうしてさびしげなる亡霊よ
貴女のさまよふからだの影から
まづしい漁村の裏通りで 魚のくさった臭ひがする
その腸は日にとけてどろどろと生臭く
かなしく せつなく ほんとにたへがたい哀傷のにほひである。
(萩原朔太郎「艶めかしい墓場」の一部)

横道にそれてしまった。僕はユイスマンスの「彼方」(1891年作)について一言しようと書き始めたのだった。「彼方」は大きく分解すると、三面に分かれている。まず第一面では、キリスト教と悪魔礼拝の詳細な議論と時折文明批評が混入されるデュルタルやデ・ゼルミーたちの会話。第二面では主人公の小説家デュルタルが書き続けるジル・ド・レーの伝記的作品、そして第三面ではデュルタルとシャントルーヴ夫人との恋愛心理小説。この第三面では、悪魔に憑かれた男性夢魔や淫夢女精に言及され、ついに二人はそれぞれの思いを抱いて悪魔礼拝へ。
これら三面がねじり合わされて物語は進行していく。オカルト愛好家には格好のテキストであるばかりか、特筆すべきはジル・ド・レーの悪魔礼拝による幼児虐殺儀式の言葉による暗黒細密画だろう。かいつまんで言えば、少年の腹を切り裂いて、ジル・ド・レーはその内臓に顔を突っ込み、血みどろになってそこをむさぼり喰らうのだが、虐殺方法が次第にエスカレートしていく場面を、先程も触れたように黒い言葉で細密画するのだった。
いずれにせよ、「彼方」に用意されていたものは、1907年ユイスマンスは死去するが、そして彼がひそかに予感していた通り、世界は彼の嫌悪した実用的唯物主義に音立てて地すべりするだろう。
翻って思えば、西洋的な認識を突き詰めれば、イエスが十字架上で処刑された時をもって、神は死んだと言わなければならない。この時から、われわれは神のいない場所で生死するであろう。すなわち唯物主義、人間中心主義の歴史である。従って「彼方」とは、人間中心主義者にとっては「虚無」であり、一方キリスト者にとっては「使徒信条」に書かれている通り、現在、神は天に座し、将来、必ず来臨する、すなわち「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」、彼等はこの「彼方」を固くとって離さないであろう、見よこの人を、彼は三日後に復活したと。