芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

唯心論と唯物論の間で

最近読んだマルキ・ド・サドの作品、といってもうずいぶん昔に読んでいますから再読ですが、12篇の作品を収録した「恋のかけひき」(澁澤龍彦訳、角川文庫)の中に、「ファクスランジュ あるいは 野心の罪」という作品があり、最近日本でも賭博場を作りたい、そしてたくさん観光客を集め経済繁栄したいと主張する人もいて、そこで、この作品の一部を引用し、ご参考に供したいと思います。

「もし賭博を取締る法律が効力を失い、逆に賭博が公認されたりして、例の緑いろの賭博台の片隅で一人が相手をおとし入れる状態、つまりそれも一種の犯罪なのですが、そういう状態がどのような法律によっても禁止されなくなった場合には、森の中で旅人の着物をはぐという、ほとんど前者に相等しいこの犯罪をも、同様に厳しく罰することはできなくなるわけです。結果が同じものである限り、手段の違いなどいったい何ほど重要な意味があるのでしょう?」(同書33頁)

この作品は、1787年から1788年の間、バスティユの牢獄で書かれたものです。「恋の罪」という作品集に収録され、実名で発表された本で、サドは意識的に合法的な作品を書いたと考えられます。

それから1782年サド43歳でヴァンセンヌの獄中で書かれた「司祭と臨終の男との対話」の中からも引用します。この作品はサドの処女作といわれています。サドの宗教や権力や民族主義に対する根本姿勢が既に処女作において確立されていて、30年近い獄中生活や、晩年の精神病院への監禁にもかかわらず、生涯根本姿勢を崩さなかったことに思い至ると、ほとんど崇敬の念にうたれます。臨終の男が、彼の枕元に立っている司祭に対してこう語りかけます。
「どうか一刻も早く偏見をなげうって、めげず臆せず、何物にも惑わされず、ただただ人間らしく、情深くなってください。あなたの神、あなたの宗教をいますぐお棄てなさい。そんなものは人類の手に凶器を持たせるよりほか、何の益にもならないしろものです。実際、こうした身の毛もよだつような観念が、宗教という唯一の美名のもとに、他のすべての戦争、すべての天災が束にしてかかっても追っつかないほど、この地上におびただしい血を流したのです。他界という観念をお棄てなさい。そんなものはどこにもありはしないのですから。ただし、幸福であることの楽しみや、幸福をつくり出すことの楽しみを棄ててはいけません。これこそあなたの生活をより豊かに、あるいはより広くするために、自然があなたに与えたところの唯一の方法なのですから。」(同書233頁)

なお、この作品に関して、ジルベール・レリー著「サド侯爵」(澁澤龍彦訳、筑摩書房)の177頁から186頁に書かれた書評を併せて読んでいただければ、よりいっそう深く理解できると思います。

同時並行して、「アンデルセン童話全集第二巻」(高橋健二訳、小学館)を読みました。図式的に言えば、アンデルセンが徹底した唯心論だとすれば、マルキ・ド・サドは徹底した唯物論だ、こんなふうに考えることもできるのかもしれません。そして、われわれ人間の思考は、この両極の間を毎日行ったり来たりしてるのかもしれません。小動物が森の中に住むように、人は言葉の中に住んでいます。