芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

「ギリシア抒情詩選」を読みました。

 昔、あちらこちら興味のおもむくまま拾い読みしていた本。そんな本がまた読みたくなって、本棚を探した。  「ギリシア抒情詩選」 呉茂一訳 岩波文庫 昭和45年9月30日第5刷  この詩選は、だいたい紀元前七世紀後半から、ほ

無償であたえられた存在

 きょうも四時前に起きて、表に出る。家並みで東の低い空は見えないので、親水公園まで歩く。  金星が見えた! 上天ではしし座が煌めき、春の大三角が。  冬の大三角は西へ傾き、リゲルやアルデバランはもう六甲山に沈んで見えない

玄関先の闇の中で

 ここ数日、曇っている日が多い。きょうの午前三時頃も、空はほとんど雲に覆われている。ただ、西の方の雲は切れていて、雲間から、ベテルギウス、シリウス、プロキオンの冬の大三角が現れている。彼等の上方では、ふたご座のポルックス

しまった! 寝坊してしまった!

 「しぶんぎ座流星群」を見るため夜中の三時ごろ起きるつもりだったが、起きたのは五時だった!  あわてて着替えて表に出た。もう東空の屋根越しに金星が浮かんでいる。  門前の道で三十分くらい、北東方面を中心に夜空を見上げてい

綺麗なものだけを……

 明け方の午前四時前、門灯を消して、表へ出た。  東の空から北の空にわたって、春の大三角形と北斗がひらかれている。背後では冬の大三角形。もうアルデバランは西に沈んでいる。  東の低い空は隣家の屋根で見えない。親水公園まで

来年、やります!

 今、芦屋浜に出て、火星を見てきました。火星の下にあるうお座のフォーマルハウトも。  眼を南から西へ転じると、アルタイル、いわゆる「ひこ星」が、その北方にはベガ、いわゆる「おりひめ星」が。そして、はくちょう座のデネブが「

シャーデヴァルトの「星のギリシア神話」

 おそらく今から四千年前か、あるいは三千年前か、無学なボクには判然しないが、人々は農耕や狩猟によって生活していただろう。いつのことかもう定かではないが、人は共同して生活し、たがいに助けあいながら労働によってそれぞれの人生

我が家からの宇宙旅行

 きょうも、夜明け前の三時半ごろに起きて、身支度を済ませ、我が家の前の道から空をあおぐ。  東の空には、アークトゥルスとスピカとデネボラの春の大三角が光り、振り返って西の空にはシリウス・プロキオン・ベテルギウスの冬の大三

やっと、「ギリシア喜劇全集」第一巻を読みました!

 近頃、ボクは読もうと思って本棚の片隅に立てたまま、長い間居眠りしていた本を、読み始めた。長い間、そう、彼の睡眠時間はもう半世紀近くなっている。  ギリシア喜劇全集第一巻 訳者代表高津春繁 人文書院 昭和47年8月10日

我が家の前の道から

 十二月二十一日。夜来の雨はあがった。夜明け前の四時ごろ、門灯を消し、我が家の前の道から東の空を見あげると、うしかい座のアークトゥルス、おとめ座のスピカ、そしてその二星を底辺にした頂点、しし座のデネボラ、所謂「春の大三角

ふたご座流星群の方へ

 十二月十四日、夜中の十二時過ぎに、芦屋浜まで出た。我が家から徒歩で十分足らず。浜の階段状の堤防に寝転んで空を見上げた。親子連れの三人の先客がいた。  空は晴れて、オリオンもシリウスも美しい。しばらくじっとしていると、ふ

その女

 午前四時。いつのまにか夏が来ていた。窓外で一匹の蛾のようなものがあばれていた。 「息が止まっています」 「アア、ソウデスカ」  死体を前にした、看護師と彼の最後の会話だった  その女が残したものに、三本の百日紅がある。

慈悲

老いて 深夜に目覚め 門を出て 闇夜に迷った 月も星もない しかし このてのひらが光りはじめた 光はあふれ からだを流れ落ち 足を照らした  

きょうも、志賀直哉の短編を読みました。

 不易流行という有名な言葉があるが、確かに人間の姿・形も歳月と共に変化していくが、十年ぶりに会った友達でも、「やあ、お元気?」、そんな挨拶が出来るのも、からだにも不易なるものがあるのだろう。それをボクラは「面影が残ってい

また、志賀直哉の短編を読んでしまった!

 ひょっとしてボクはAに洗脳されたのだろうか。夜の街の電光の中から、「志賀直哉の短編が好き」、彼女のそんな声がして、また、ボクは、しょうこりもなく、こんな本の扉をたたいた。  「小僧の神様・城の崎にて」 志賀直哉著 新潮

そして、志賀直哉の短編を読んだ。

「志賀直哉はどう?」 「『暗夜行路』や『和解』などは読んだけれど……」 「わたしは、志賀直哉の短編が好き」  もともとボクは所謂「白樺派」の作家は読まなかった。おそらく肌に合わないだろう、そんなふうにずっと思っていた。「

初めて、有島武郎を読む。

「わたし、有島武郎が、好きなの……」  賑やかな夜の街をならんで歩いている時、不意にはしゃいで、Aは有島武郎の作品「或る女」についてまくしたてた。 「ボクは、何故か、今まで一度も読んでいないけれど……」  「小さき者へ・

偶然、シェンキェーヴィチの「クオ・ワディス」を読む。

「今、ショーロホフの『静かなドン』を読んでいます。昔、えっちゃんが読んでいた本だが、彼女を偲んで」 「おもしろい?」 「まだ、読みかけたとこだから……」 「シェンキェヴィチの『クォ・ヴァディス』って、おもしろいよ。ネロ時

「吉田一穂全集」第三巻を読む

 第三巻は、この詩人の童話作品が収録されている。第一巻から読み始め、この第三巻に至って、彼のすべての作品を読み終えたことになる。  「定本吉田一穂全集」第三巻 昭和58年1月20日発行 小澤書店  もう少し詳しくみてみよ

「逸見猶吉詩集」再読

 この詩人の故郷、谷中村は水没した。  周知のとおり、足尾銅山鉱毒事件に対して田中正造が中心となって村民と共に公害運動を闘っていたが、鉱毒を沈殿させるという名目で政府が谷中村に遊水地を作る案が出たため、一九〇四年七月三〇

心が明るくなる

 断崖だった。……  未明、いちめん、寝起きの頭のようにぼさぼさした荒地を歩き続けていた。あちらこちら、まばらな枯れすすきが、風もない無音の状態で、ふにゃふにゃ、ふにゅふにょ、巨大な糸みみずになって蠢いていた。  眼下は

オリオン

 おそらく午前四時半頃だろう、十月に入って、朝刊を取りにいくため、玄関を出て門扉の郵便受けまでのあいだ、まだ夜明け前の上天にオリオンが輝いている。  もう六十年余り昔の話だが、戦後まもなく荒地に建てられたバラックに近い我

「吉田一穂全集」第二巻を読む

 この本は、四篇に分けて構成されている。すなわち、「試論篇」、「随想篇」、「雑纂」、「草稿」。  定本「吉田一穂全集」第二巻 昭和57年12月20日発行 小澤書店  もう少し詳細に紹介すれば、「試論篇」は、二冊の単行本と

ショーロホフの「静かなドン」を読む

「これって、とんちゃん向きじゃないと思う」  もう四十年余り昔のこと、三十歳になったばかりのえっちゃん、これはボクのワイフの通称だが、ボクのような人間、つまり「とんちゃん」はこの本なんて読まなくっていい、そう言い切って、

芦屋浜・正午

十月だというのにまるで初夏のような青空と雲の下、ボクは堤防の階段に座って海を見つめていた。えっちゃんが亡くなって四年余りたって、初めてこの階段に独り座ることができた。  正午は  頂点から  青色の球を描き  海は  太

夜の詩

夜中に眼がさめた 誰かが唄をうたっていた 綺麗な声だった こんな言葉が流れてきた  愛が消えたら  心が消えた

風邪の朝に

めまいがして 立ちくらみがして 久しぶりに仕事を休んだ でも すっかり日課になってしまった 花の水替えがトテモ心配になり ふらふらしながら ダイニングの東窓の飾り棚にならんでいる えっちゃんの遺影と骨壷 ジャックの骨壷と

「ヨブ記」、すべてを失った人の言葉。

 昔から、神を信じたら幸福な生活を送ることが出来る、宗派は違っても、行き着くところそれに類する宗教が多々あるのではないか。この考え方からすれば、結局、神は人間を幸福にするために存在するのであって、よくよく胸に手を当てて考

Uの死

 九月三日、月曜日。Uは息をひきとった。  彼は、芦屋市立山手中学校在学中、ボクと同期生だった。  中学三年生の時、ブラスバンド部で小太鼓を叩いていた彼、クラシックギターを弾いていたボク、このふたりでロックバンドを組んだ

「吉田一穂全集」第一巻を読む

 ボクは、この本を三十三歳の時に手にした。おそらくボクの十代から三十代半ばくらいまで、芥川賞や直木賞を競い合う小説世界の喧騒から遠く離れて、ひっそりこんな本を開くのが、芸術作品の近くに住んでいる、そんなふうに感じていた若

心がグラグラしている時は……

誰にだって 心がグラグラしている時が あります そんな時は 眼をとじて まるで月のひかりのような 君が一番愛している人の笑顔を 荒れ騒ぐ夜の心の海に 浮かべてください

宇野弘蔵の「価値論」、「価値論の研究」

 もうずいぶん古い話だが、ボクは二十歳前後から二十代半ばまでの五、六年間、経済学の本をよく読んだ記憶がある。  経済学といっても、マルクスの「資本論」と、その理論を基礎にして厳密な社会科学としての経済学を構築した宇野弘蔵

死夢

この頃 深夜から未明にかけて 死体になる夢を見る 変色して 徐々に腐り ただれ ねとねとして 汁状に 眼 耳 鼻 口 頭のさまざまな穴からうじ虫が這いずりだし あるいは 首や下腹部の皮を破って うごめいている  内部では

移動

 足の裏に眼がある。闇の中でも豆電球のように光り、時折まばたきする。右足と左足の裏に一個ずつある。ベッドにあおむけに寝転がってぐっすり眠っているのだが、足の眼はぽっちり開いて、部屋の壁の姿見に映った足の裏を見つめている。

虚空

 昔、種々の物質が結合して、仮の男と仮の女が生まれた。彼等はこの束の間の現世で縁あって同じ屋根の下で暮らした。縁とは、愛の異名だった。  四十三年後の未明。仮の女は元の種々の物質に分解してこの世から絶えた。やがて仮の男も

滝沢克己の「『現代』への哲学的思惟」

 この本の著者は、一九五八年に洗礼を受けキリスト教の信者になっているが、一九三三年、二四歳でドイツに留学し、ボン大学でカール・バルトに学んだことがその発端だ、そう言って決して過言ではないと思う。ただ、ドイツ留学へ出発する

夜の雨

雨もよいする 六月のたそがれ きょうも公園の 花園を歩く 紫 うす紅 白 あじさいは咲き乱れ ゆりの花々が小さな声で もう夜のおしゃべりを始めた 霧雨に揺れる ラベンダーの薄闇に あの人がいる 霊の足音が  

星野元豊の「浄土の哲学」

 今から四十三年昔、二十六歳の時に夢中になってむさぼり読んだこの本を、ボクはこの歳になってもう一度開き、最終行を見つめて、本を閉じた。懐かしくて胸が震えた。集中した読書をして重たくなったまぶたを休めるため、ベランダに立っ

星野元豊の「浄土」

 ボクは二十六歳の時、この本を手にして、感動した。もう四十三年昔の話である。  このところ、十代二十代の頃に読んで、スゴイ! そう思った本を再読している。贅沢な老後の時間である。    「浄土ー存在と意義」 星

ローザ・ルクセンブルクの手紙

 きょうが最終回である。今まで、ローザ・ルクセンブルク選集全四巻、資本蓄積論全三冊を学んできた。芦屋芸術主催の「ローザ・ルクセンブルク読書会」第八回最終回の教材は、これである。    「ローザ・ルクセンブルクの

草の実を食べていました

いつも ふたりで歩いた 近所の 公園の ハラッパに 鳥が おおぜい やって来て 草の実を 食べていました つんつん首をあげさげして せわしなく じっと出来なくて ちょんちょん跳びはねて 雲ひとつない青空の下 五月の昼さが

ミニバラ

毎日 水やりをしていたかいがあって えっちゃんが 愛していた 赤いミニバラが ことしも わが家の庭の ウッドデッキの東側を いちめん 彩りました けさ ハサミで一輪切って 赤いグラスに立てて ダイニングの東窓の飾り棚に四

ローザ・ルクセンブルクの「資本蓄積論」第三篇

 芦屋芸術の第七回「ローザ・ルクセンブルク読書会」は、マルクスが「資本論」第二巻で論及した社会的総資本の再生産表式に対して、特にその拡大再生産表式に対して、ローザ・ルクセンブルクが真正面から批判した論文を取り扱う。 &n

ローザ・ルクセンブルグの「資本蓄積論」第二篇

 前回の読書会で勉強したとおり、人間の労働はいつの時代にあっても、自分の一日の消費手段以上の生産物を生産する。これが人間の基本的な特色で、この土台の上で、人間の文化は形成されている。  さて、ボクラが現在住んでいる資本制