芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

星野元豊の「講解教行信證 信(続)証の巻」

 ちょうど四十年前、鹿児島県大口市にある大嵓寺の住職星野元豊師をお訪ねした理由は、ただ、一度でいいからお会いしたかった、それだけである。なにか、引力のようなものを感じていた。仄暗い座敷に対座して、ほとんど朴訥と言っていい、丁寧に語っておられる先生の気配の影が、眼を鎖せば、ボクの静かな意識の水面に今でも端座して映じている。

「先生の『浄土』の主体的な理解におどろきました……」

 星野先生は黙ってうなずいておられた。

 本書にも、常に真如に耳を傾け、真如に突き動かされて、みずからの思いのすべてを正確に投げ出している先生の姿が、この世の闇の中の月のように浮かんでいる。

 

「救いの対決はどこまでも主体的である。主体的対決は一人一人でなければならない。普通の衆生に対しての救いということは、概念的にはありえても具体的にはありえない。仏は無量の衆生に対していつも一対一の関係においてはたらくのである」(本書968頁)

 

 講解教行信證 信(続)証の巻 星野元豊著 法蔵館 昭和54年11月13日

 

 真如というのは、ありのままにみる、そういった意味があるとするなら、星野元豊が本書でねばりづよく言及している第十八願の「唯除五逆誹謗正法」の問題、特に「唯除」という言葉に対して長い歳月にわたって思惟してきたのも、彼が真如に動かされて思索している事実を端的にもの語っているだろう。

 さて、この「唯除」という言葉の深い意味を出来るだけわかりやすく簡潔に、ボクなりに整理してみたい。まず順序として、「無量寿経」の第十八願の原文と書き下し文、著者の訳文を並列して掲げる。

 

 設我得仏十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念若不生者不取正覚唯除五逆誹謗正法

 

 たといわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生まれんと欲ふて乃至十念せん、もし生まれざれば正覚を取らじと。ただ五逆と誹謗正法を除く。

 

 たとえ私が仏になるであろうとき、十方世界の衆生がまごころから一心に(至心)信じて(信楽)私の浄土へ生まれたいと望んで(欲生)ないしはわずか十遍でも念仏するならば、必ず往生せしめるであろう。もし念仏して往生できないというようなことがあるならば、私もまた仏と成らないであろう。但し五逆罪を犯したものと仏を誹謗したものはこの救いから除外する。(485~486頁参照)

 

 法蔵菩薩の四十八願中、この第十八願をもって、法然は「選択本願念仏集」において王本願としているが、親鸞もそれを受け継ぎ根本願として「教行信証」の「信」を書いている。

 上掲上掲したとおり、この願を読めば、ボクたちが一心になってわずか十遍でも念仏すれば浄土に往生できる、もしできないというようなことがあれば私は仏にならないと法蔵菩薩は願って、そして既に法蔵菩薩は成仏して阿弥陀仏として現在している。ということは、この法蔵の願は成就されたので、ボクたち凡夫は一心に念仏すればこの穢土を出離して浄土に往生できることが約束されたのである。

 ところが、ここからが問題である。この十八願の末尾にこう書いてある。

 

 唯除五逆誹謗正法

 ただ五逆と誹謗正法を除く。

 但し五逆罪を犯したものと仏を誹謗したものはこの救いから除外する。

 

 一方で念仏さえ称えれば誰もが救われる、浄土に往生できると法蔵菩薩は約束しておきながら、もう一方では「唯除五逆誹謗正法」と制限して、こういう罪を犯しているものは除きます、救いません、そう書いている。仏教で「五逆」とはいったいどんな罪なのか。

 まず小乗仏教で五逆罪とは以下のとおり。

 殺父、殺母、殺阿羅漢、破和合僧、出仏身血。以上五種。

 また、大乗仏教での五逆罪はさらに厳しくなっている。

 (1)塔・経像・三宝付属物の破壊

 (2)三乗の教法の排斥

 (3)出家者の修行の妨害

 (4)小乗の五逆(上述)

 (5)業報を無視して十悪を犯すこと

 そして、(5)の十悪とはどういう罪だろう。

 殺生、偸盗(どろぼう)、邪淫、妄語(うそつき)、綺語(でまかせ)、悪口、両舌(二枚舌、そしる)、貪欲、瞋恚、愚痴。以上十種。

 つまり、こういうことをやらかすボクたち泥凡夫はいくら念仏を称えても救いがたい、浄土へ往生できない、五逆誹謗正法を因として、結果、無間地獄に必ず堕ちる。だが、上述した罪のひとつやふたつ犯していない人なんてこの世にいるだろうか。少なくともボクは永劫にわたって阿鼻地獄に墜落することが決定されている。しからば、自力で修行して救済される聖者あるまじき泥凡夫のボクが、一切を放下して、藁をもすがる思いで念仏にしがみついたとしても、「唯除」という鉄槌を脳天に下されて、無間地獄に転落してゆく……。

 この事態を救済しようとして、善導は『観経疏』「散善義」のなかでこう説明している。

 

 この義、仰いで抑止門の中に解す。<中略>。ただ如来この二つの過(注.五逆誹謗正法)を造らんを恐れて、方便して止めて往生を得ずと言えり。

 

 「抑止門」というのは、おさえ止めるということで、如来が罪を造らせないようにあらかじめ制止されるために説かれたと善導は解釈している。すなわち、五逆誹謗正法を犯そうとするのを未然に防ごうとして「唯除」とかいている、と。(1084~1085頁参照)

 親鸞は「尊号真像銘文」でこういう。

 

 唯除五逆誹謗正法といふは、唯除といふはただのぞくといふことば也、五逆のつみびとをきらい、誹謗のおもきとがをしらせむと也。このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせむとなり。

 

 「唯除五逆誹謗正法」、この一行に対する星野元豊の理解は、特に本書の1096~1100頁を味読していただきたい。確かに、単に五逆誹謗正法を衆生が犯すことを未然に抑止するためにわざわざ短い願文に「唯除」と付加したとは考えにくく、仏の思いにはもっと深い意味があるのではないか、たとえば、この厳しく突きつけられた一行には、いかにわたくしたちが反人間的な生活を日々過ごしてきたか、現に今も五逆誹謗正法の中で三界を流転している。菩薩の鉄槌でこの不可思議な一行の杭を心に打ち込んで一日も早く覚醒し懺悔し回心するよう、ずっと呼びかけ続けている弥陀の大慈悲のはたらきなのかも知れない。

 

 つづいて「証の巻」。

 ボクは証巻について何か語ろうとしたが、信仰のない無知な人間が、前念命終、即得往生、後念即生についてわかったような顔をして何事か語っても、そらぞらしいおしゃべりに過ぎないだろう。

 ただ、ボクの場合に関して言えば、宗教でイヤだなあ、そう感じるのは、物神崇拝的な聖なる物体が強く前面に出た時である。例えば、「阿弥陀仏」でも「浄土」でも物体的なものとして強く表象される時、とてもイヤな気持になる。物は壊れ、やがて消滅するからである。忙しくて騒がしくてソワソワした心地がする。星野元豊の文にはそうしたゴツゴツしたモノがまったく感じられない。不思議な文である。そういう意味で、証巻の末尾にはすなおに感動した。

 証巻の終わりが近づいて、利行満足について書かれ、すなわち五念門の因行が成就して五果門を得て、五種の功徳が成就するくだりである。

 五果門のうち、一門から四門までは浄土へ入り、浄土の中での自利の出来事だが、最後に浄土から出る、出門の第五門。これを薗林遊戯地門と称しているが、この門を出て生死の園、煩悩の林に回入して、菩薩は神通に遊戯して衆生を度すのである。その遊戯に二つの意味があり、二つめの意味についてこう書いている。

 

 二つには度無所度の義なり。菩薩、衆生を観ずるに、畢竟じて有らゆるところ無し。無量の衆生を度すといへども、実に一衆生として滅度をうるものなし。衆生を度すと示すこと遊戯するがごとし。

 

 この「度無所度」の文に関して星野元豊はこのような解釈をたてている。少し長文になるが、すばらしい文章であり、この証巻を結ぶにふさわしい還相回向が結晶した言葉だと、ボクは思う。味わって欲しい。

 

 度無所度というのは、度するに度するところなし、ということで、浄土の菩薩が衆生を済度したもうのに、いくら済度しても済度するところがないということである。<中略>。菩薩が衆生を観察されると、衆生は畢竟空であって、有るところはない。有とすべき何ものもない。衆生の相もなく、体もない。このように本来空であって、体というものがないのであるから、無量の衆生を済度しながら、しかも一衆生として済度されて滅度を証りうる者はないのである。<中略>。一切皆空である。度すはたらきをなす仏もなく、度されるべき衆生もない。そのままである。度すといえばそのままで度されているのである。だからわざわざ滅度をうる者もなく滅度をうる必要もないのである。もし滅度といえば、そのままが滅度である。生死即涅槃であり、煩悩即菩提である。どうして生死を出る必要があろう。生死を離脱してあらぬところに滅度を求める必要があろう。煩悩即菩提である。どうして煩悩を断ずる必要があろう。そのままでよいのである。したがってそこでは度することなくして度しているのであり、度して度することがないのである。これが遊戯の第二の意義である。(1351~1354頁参照)

 

 ボクが星野先生にお会いしたのは、四十年前のあの日だけだった。春、五月の昼下がりだったと記憶する。一ヶ月ほど後に、花園大学で講演されたが、演台に立った先生のお姿を拝見しただけで、講演終了後、ご挨拶もせず東京に帰った。無礼千万の若造だった。