芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

星野元豊の「講解教行信證 信の巻」

 一九七七年五月、鹿児島県の大口市にある大嵓寺に星野先生をお訪ねした折の思い出を、少し語りたい。この頃、先生はライフワークの「講解教行信証」の執筆に集中していて、おそらくボクのような一面識もない若造を相手にしている時間などなかったに違いない。ところが、信じられないくらい優しく歓待されて、奥様に座敷まで案内され正座したら、開口一番、「さあ、さあ、足を崩してください、どうぞ遠慮しないで、楽にして、足を崩してください」、ご自身は正座したまま、右手を水平に前に差し出して、ボクをうながした。

 さまざまな会話の中で、今回読んだ著書の中に書かれているが、こんなことも言われた。

「吉本隆明が最近親鸞について書いていますが、少し批判しておきました」、さらりとそう言われた。吉本隆明が「最後の親鸞」を出版したのは一九七六年、ボクが先生を訪問した前年だった。

 

 「講解教行信證 信の巻」 星野元豊著 法蔵館 昭和53年8月10日発行

 

 この本の520頁を開いて欲しい。あの時、話に出た吉本隆明への言及も含めて、そればかりではなく、「教行信証」を理解する上でとても大切な基本中の基本が書かれていると言っていいので、引用しておく。

 

「親鸞は経典の文句を使いながら自由奔放に自分の思うままにその場その場に応じて異なって解釈しているのである。その自由さは真実信心を得たものの自由さであり、究極には仏の自由さである。親鸞は祖師たちの文はもちろん経典の語句さえ読みかえて何んら拘束されていない。『教行信証』は経典、釈の文類であるから『経典の言葉に制約されて』自由ではないとみるのは皮相である。(吉本隆明「最後の親鸞」)」

 

 さらに、本書の「あとがき」でこう書いている。少し長くなるが、「教行信証」を読む心構えとしても、ぜひ一読して欲しい。

 

「この巻の執筆中、吉本隆明氏の『最後の親鸞』なる著書が公刊された。わたくしも氏の考えに多々同意するところがあるが、その中でどうしても合点ができかねるのは、氏の『教行信証』に対しての評価である。氏によると『教行信証』は「知」の書である。ところが最後の親鸞の落ちついた処は「非知」である。従って『教行信証』のような知的処理の書には親鸞の「非知」の思想は到底完全にもりこむことはできないにちがいない。だから『教行信証』においては最後の親鸞の思想は体系的につかむことはできないというのである。ところがわたくしにいわせるとこれは大きな誤解である。『教行信証』は単なる「知」の書ではない。もし「知」の書であるとしても、それは氏のいう「非知」の「知」の書である。氏のいう「非知」を体系的に示したものこそ『教行信証』なのである。『教行信証』は「非知」という語りえないものを何んとか体系的に語ろうとした親鸞の苦闘の書である。

 実のところ吉本氏の『教行信証』についての批判はわたくしには意外であり、おどろきであった。わが国まれにみる鋭い洞察力の所持者である吉本氏としたことが、どうしたことであろう。わたくしは吉本氏が『教行信証』を通読していないのではなかろうかとさえ疑った。それでなければ、『教行信証』は経典の抄出と注釈と引用の書であって、そこには親鸞の独自性はみられない、たとえみつかっても、経典の言葉に制約されていて、浄土門思想の祖述者としての親鸞がみつかるだけである、などという批評が鋭い氏の言葉として出るはずがないからである。にもかかわらずこのような批評が生まれるとすれば、吉本氏は『教行信証』を理解しておられないというよりほかない。このような無理解をもたらしたものはいったい何んであろうか。それは何よりもまず『教行信証』の難解さにある。『教行信証』は一見無味乾燥な経典等の羅列と映るかもしれない。何よりもこのことが『教行信証』を敬遠せしめるという結果をまねいたのであろう。そして多くの人が『歎異抄』や『和讃』などのカナ聖教から親鸞を語るという結果をもたらしたのではなかろうか。しかしまた『教行信証』を高く評価している人のなかにさえ、時として誤解されているばあいも見出される。このようなことになったのは『教行信証』について現代人に理解されうるような解説書があまりなかったことに大きな原因があるように思われる」(同書「あとがき」から)

 

 思わぬ長い引用になってしまったが、ボクも最初『教行信証』をざっと眺めた時、取り付く島がなかった。しかし、星野元豊の「講解教行信証 教行の巻」を読み、今、「信の巻」を読了した時、親鸞が経典や釈等の文類をさまざまにコラージュしてさまざまな送り仮名と返り点、そんな独特な漢文の原文と著者の解説文を夢中になって読みすすんでいくと、いつしか親鸞の真実信心を支えている根源が浮かび上がってくる気持がした。例えば、この罪悪深重のボクが回向するのではなく、つまり暗愚・懈怠のボクには真剣に回向なんて出来ない、あらかじめ如来の方からボクを救済するために無窮にわたって大慈大悲の回向をしているのだと明確に理解できるように、「回向シタマエリ」、あるいは「回向セシメタマエリ」、こんな表現が連発される時、ユーモアさえ覚えてつい笑ってしまうのは、ボクひとりではあるまい。

 さて、親鸞が「行の巻」の後にわざわざ「信の巻」を説かなければならなかった根本的な理由を簡単にまとめてみた。

 天台や華厳、真言などのいわゆる聖道門の場合、言うまでもなく「行」は自力で行ずるが、その自力修行が突き詰めれば煩悩熾盛の凡夫には不可能であると思い知って、ただ弥陀の名号を信ずればよいという浄土門の易行に親鸞は帰した。しかし、「信じる」という行為も、真剣になればなるほど、「信じる」努力という自力の迷路に踏み迷ってしまう、言いかえれば、人間中心主義の宗教に堕してしまうのだった。従って、「行の巻」で説かれた阿弥陀仏の回向という「行」を信じる他力の信、自力のはからいを捨てた真実の「信」を親鸞は明らかにしなければならなかった。(同書465~467頁参照)

 ところで、いったい何を信じるのだろう。

 ひとつには、ボクのような衆生にはもともと真実の信などというものはありようがない。無明の迷いは本来衆生そのもの、つまりボクそのものの本質である。だから、ボクはボクの本質が無明であることを信じる。

 ふたつには、そんな痴無明のボクを阿弥陀如来は今ここで救ってくださった、その真実を信じる。

 で、こんなふうに信じたなら、それじゃあ、いったい、何が見えるのだろう。それは例えば、

 

 一切衆生悉有仏性

 草木国土悉皆成仏

 

 森羅万象、ことごとくみな成仏している姿が見えるだろう。星野元豊は言う。

 

「如来とは虚空である。虚無(こむ)である。すなわち如来中心主義的立場は虚無となって、ものをみる立場である。そこでは虚無となってものの真実をみることができるであろう。太陽の恵み、水の恵み、山川草木すべてが私にとって恵でないものはない。私は私をとりまくありとあらゆるものによって私は支えられ、保たれて私は今、ここに在るのである。それは私の目には見えないけれども、しっかりと私の心に確かめうる恵の力である。それは自己中心的な私の妄想が生みだした妄念ではない。如来の世界に立って無となってみる現実の真実である」(792~793頁)

 

 他にも引用したい箇所が多々あるが、それをしていると一冊の本になるだろう。何かの縁だと思う。ぜひ、一歩踏み込んで、直接この著作にあたって欲しい。

 ボクはこの本を読み、こんな感想文を書きながら、やはり、三年前に亡くしたワイフが浮かんでは消えていた。少なくともボクの心の中では、ボクのワイフ、ボクの化身仏、えっちゃんは、この娑婆苦を去り、すがたもかたちもましまさず、だからもうこれ以上壊れようもないのだから、既に永遠であろう。