芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

星野元豊の「講解教行信證 真仏土の巻」

「せっかくここまで来られたから、滝沢克己さんに会っていけばいいんだが、あいにく彼はドイツに行っているから……」

「滝沢先生……神即人、人即神の不可分・不可同・不可逆の原関係……この言葉を初めて知った時、震えました」

 あの頃、ボクと同じ団塊の世代にはいっぱいいると思うけれど、革命やら反戦運動に挫折して、二十代、ボクは日本の思想家では、特に星野元豊、滝沢克己、宇野弘蔵の本を熟読していた。その後、家族を背負って、娑婆苦・生活苦の闇に沈んだ時、星野先生に学んだ一行、「生かされて生きる」を心に称えて、ひっそり安堵を覚えていた。

「滝沢さんはそうなるのに大きなきっかけがあったようですが、わたしの場合、自然にそうなりました」

 本書の中にも、一箇所、滝沢克己に言及している。法性法身と報身の区別と関係を理解する上で大切なところなので引用する。

 

 「根本仏教で煩悩即菩提、生死即涅槃といわれているものは法性法身の立場においていわれているものであるが、しかしいまこの報において相即無相、無相即相といわれているものはそれとは次元を異にする。もし滝沢(克己)哲学(神学)の言葉をかれば、性空の真如、法性法身における有即無は第一義的即であるのに対して、報身における相即無相は第二義的即である。もちろん第二義的即は第一義的即なくしてはありえない。第二義的即は第一義的即を土台としてその上に形成されているものではあるけれども、しかし第二義的即と第一義的即とは厳密に区別されねばならない。第一義的即と第二義的即とは世界が違うのである」(本書1611頁)

 

 前後の文を削除しているので、これだけの文だけでは理解するのが困難だと思う。しかし人知を超えた真如の世界を人間の言葉で表現するため、致し方ないのかもしれない。ただ、個人的な理由に過ぎないが、滝沢克己の名前が出たので、ボクとしてはどうしても引用しなければならなかった。上の文をわかり易く理解する参考に、星野元豊と滝沢克己の対談をご紹介しておく。

 

星野ー私はね、第一義の接触と第二義の接触を仏教に当てはめてみますと、「仏凡一体」の一如のところ、それは一如海とか真如海とかいう言葉が最もよく示していますように、すべてがそこへであるような海、一如の海のところが第一義の接触ですね。

 そして第二義の接触とこうおっしゃいます場合には、真宗で申しますと阿弥陀仏と人間の接触の所で、阿弥陀仏の出現によって阿弥陀仏と衆生の接触の所が第二の接触だと、こういうふうに理解するのが一番近い……。

滝沢ー「阿弥陀仏」が「イエス」にあたるとしますと、そうなりますでしょうね。いずれにしましても、こちらのはからいでない南無阿弥陀仏が自然に沸き起こってくるその姿を、私の場合は第二義の接触というふうに考えるんです。

星野ーそうでしょうね。私はそういうふうに理解したんです。(「畢竟」204頁、法蔵館、昭和49年9月15日)

 

 「講解教行信證 真仏土の巻」 星野元豊著 (法蔵館 昭和56年4月30日)

 

 この巻は、第十二願の光明無量の願と第十三願の寿命無量の願が成就された真仏土を詳細に書いている。静即動の真如から来生して、真仏(阿弥陀如来)は三界を流転する衆生を召喚し、真仏土(浄土)は彼等を受容する。そのダイナミックな本性と属性をあますところなく文にしている。ボクのような無信仰の泥凡夫のよく解説するところではない。

 無量光・無量寿の表現で印象に残った文を、二行あげておく。原文、書き下し文、著者の訳文を三行並列して以下にご紹介する。

 

 諸有人民蜎飛蠕動之類莫不見阿弥陀仏光明也

 諸有の人民・蜎飛蠕動の類、阿弥陀仏の光明を見ざることなきなり。

 あらゆる人間からとびはねる虫けら、うごめくうじ虫のごとき類まで阿弥陀仏の光明を見ないものはない。(1393~1396頁参照)

 

 すなわち、バッタやうじ虫に至るまですべての生きとし生けるものは無量光に輝き、無量寿にわたって阿弥陀仏はみそなわしたまう。もう一行。

 

 諸在泥梨禽狩辟茘考掠勤苦之処見阿弥陀仏光明至皆休止不得復治死後莫不得解脱憂苦

 もろもろの泥梨・禽狩・辟茘・考掠・勤苦のところにありて、阿弥陀仏の光明をみたてまつれば、至りてみな休止して、また治することを得ざれども、死して後、憂苦を解脱することを得ざるものはなきなり。

 もろもろの地獄(泥梨)・畜生(禽狩)・餓鬼(辟茘)・阿修羅(考掠)などの苦しみのところにあって、阿弥陀仏の光明を見たてまつれば、やがてみな一時はその苦しみもおさまってしまう。その苦しみを根治することはできないけれども、死んだ後にはその憂え苦しみを解脱することのできないものはないのである。(1393~1396頁参照)

 

 たとえ地獄で憂苦の生活に追われていても、闇の底で阿弥陀仏の光明に包まれていることを確信した時、しばし安堵し、ふたたびいちめんの火炎の中で孤独に怯え、けれども地獄の寿命が尽きた時、解脱して浄土に成仏できるのである。すなわち仏になるのである。

 ところで、先にも書いたとおり、ボクは三年前に四十三年間、同じ屋根の下で愛苦を共にしたワイフを亡くし、現在でも胸苦しく耐えがたい時間が毎日やって来る。決しておおげさな表現ではなく、所謂「愛別離苦」が全身をとらえて離さない。そんな時は、彼女とよく歩いた近くの芦屋浜で海を見つめている。そういう事もあって、親鸞は人間を支える「愛」についてどのように語っているのか、ボクの心の中に自然とそういう問いがわきあがって来る。

 

 大慈悲是仏道正因故言正道大慈悲

 大慈悲は仏道の正因なるが故に、正道大慈悲とのたまえり。(1513~1522頁参照)

 

 そして浄土の根本をこう表現している。

 

 安楽浄土従此大悲生故

 安楽浄土はこの大悲より生ぜるが故なればなり。(同上参照)

 

 この大悲を説明するのに、慈悲には三縁があるといって、三つの種類の慈悲をあげている。

 

 慈悲有三縁一者衆生縁是小悲二者法縁是中悲三者无縁是大悲

 慈悲に三縁あり。一つには衆生縁、これ小悲なり。二つには法縁、これ中悲なり。三つには無縁、これ大悲なり。(同上参照)

 

 この三縁について以下のように著者は解説している。

「一つは衆生縁の慈悲といわれるもので、人間関係の因縁によっておこす慈悲で、父母、妻子、親族などを縁じておこす慈悲で、普通に愛といわれているものである。それでこれを小悲という。法縁の慈悲というのは、一切の法(もの)はすべて縁によって生ずるものであるから、その関係、道理によっておこす慈悲を法縁というのである。これは中悲といわれている。第三の無縁の慈悲とはあらゆる差別の見解を離れた平等の大慈悲そのもののはたらきをいうのである」(1522~1523頁)

 この解説の後、著者はこの問題はもっとも重要であると指摘して、さらに検討をかさねていく。浄土の根本に慈悲があり、そればかりではなく、そもそも著者が指摘しているとおり、「慈悲は是れ仏教の根本なり」(大智度論)といわれている。(1523頁参照)。それでは三つの慈悲とは何か。どのように考えているのか。

 「六要鈔」ではこの三縁の慈悲に二種類の解釈を紹介している。ひとつの解釈は、上に引用されたとおり、三縁がそれぞれ違った概念として、まず低次元に衆生縁の小悲、その上に中次元の法縁の中悲、さらにその上に上次元の無縁の大悲。世俗的な愛の小悲・衆生を済度する菩薩的な愛の中悲・絶対空が自然にはたらく絶対愛の大悲と円錐状に三層に積み上げられていく。しかし、各層はそれぞれ独立して形成されている。これは、自力的世界、つまり断煩悩即菩提の考え方ではないだろうか。

 もうひとつの解釈は、海のような横に包まれていく慈悲の理解。著者はこう表現している。「横の理解は衆生縁、法縁、無縁ともに宗教的である。すなわち仏の無縁の慈悲が衆生を縁じてはたらいたのが衆生縁の慈悲といわれ、同じく無縁の慈悲が諸法を縁じてはたらいたのが法縁の慈悲であり、ともに無縁の慈悲のはたらきということができるであろう。従ってそこには小・中・大と質的区別をつけることはでき難いともいえる」。

 そして著者は極めて重要な提言をしている。熟読して欲しい。

 「わたくしは大悲が生きたはたらきとしてこの現実にはたらくとき、三縁の横の理解の立場、すなわち無縁の大悲の三縁にわたっての无㝵自在のはたらきこそ、生きた愛の具体的にして本来的な在り方ではないかと思う。なお道徳的愛と衆生縁の慈悲の問題も解決されるべき問題であるが、これは今の問題ではないので割愛せざるを得ない。ただ大悲については愛の宗教を標榜しているキリスト教の神愛との比較においてより徹底した論及がなされることによって、更に深化された明晰な解明がなされると思うが、はたして天、寿をかすか否か、将来の学徒に期待したい」(以上1523~1529頁参照)。

 

 浄土とは何か。

 

 逍遥帰自然

 逍遥して自然に帰す。

 一切のはからいを捨てきって、呆然として無心のまま自然(じねん)の楽(みやこ)へかえってゆくのである。まさに他力自然の極致である。(1623~1624頁)

 

 浄土に往生するとは何か。

 

 言往生者大経言皆受自然虚无之身无極之軆

 往生というは、大経には、皆受自然虚无之身无極之軆とのたまえり。

 往生というのはどういうことかといえば、『大経』には「皆、自然虚無之身、無極の体を受ける」とある。普通には往生といえば、肉体的に死ぬことだと考えている。普通にはだけでなく学者のなかでも概念的にはいろいろむつかしい言葉を弄してはいても、押しつめてゆけばこのように考えている人も多いのではなかろうか。だが『無量寿経』はそうはいっていない。自然虚無の身を受けることだという。わたくしたちが自然そのものになること、全く虚無に帰すること、絶対空、絶対無になることだというのである。無極の体をうけることだという。究極の無限絶対の空そのものになること、それが往生ということである。真仏、真土そのものになりきること、それが往生だというのである。肉体の死などということは往生とは無関係のことなのである。従って往生ということは概念的にいえば、形而上的概念である。それを世俗的慣用の観念と結びつけて考えるところに間違いが生ずるのである。(1654~1655頁)

 

 ボクはきょうも芦屋浜で海を見つめている。ボクの「愛別離苦」からの解脱への道はまだまだ続く。愛別離苦即菩提への道。

 

 

 

 

 

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