芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

詩誌「布」三十七号を読む。

 過日、先田督裕さんから詩誌が送られてきて、さっそく、読んでみた。

 

 詩誌「布」三十七号 2020年9月20日発行

 

 初めから、最後まで、山あり谷ありだったが、やがて河口まで流れて、気がつけば、我が家に帰っていた。六人の作者が、それぞれ自分の思いに向き合って、その思いが言葉になって刻まれていた。

 最近の詩誌を読んでいて気づくのだが、いま世界を脅かしているコロナを対象にした作品を多々目にしてきた。この詩誌「布」にも太原千佳子の「コロナ御籠りから詩へ」と先田督裕の「ステイホーム(ウチで過ごそう)」の二篇が発表されている。

 太原千佳子の詩は異色で、コロナ現象を地球レベル・宇宙レベルの出来事にしてSF的な味わいがした。また、先田督裕の詩はコロナ現象を、「人はひとりでは生きていけない/人は集まってこそ人である/ところがコロナは/人が人になる条件のひとつを奪った」(第五連)と表現し、人間の社会状況が変化する可能性を示唆している。

 阿蘇豊の「草取り」では、日常生活の庭の草取りという何でもない状況の中で、「オレハヒトリデソンザイシテイル」、そんな単独者としての実存を発見する。寺田美由記の「迷いご」は、オレオレ詐欺のようにさまざまな人が語りかけてくる優しい言葉を拒否して、自分の言葉を大切にする方向、作者はその方向を「永遠の迷いご」、と命名しているが、その方向で生きていくことを選択する。

 杜みち子の「世界」は、人工透析の世界を書いている。わずか十九行の言葉だが、重い。こういう詩が詩誌に発表され、共感できる社会ならば、まだまだ私達は希望を捨てなくていい。小網恵子の「森」は、詩誌「布」の中でただ一篇、散文詩である。確かに、「その人」を表現するためには、散文による一定の言葉の固まりが必要なのかも知れない。森の中でかつてみずみずしかった「その人」に、晩年がやって来たのか。最終行で、「森が見える。木々は葉を抱え深く静まっている。」、眼前には変わらず、あの時と同じ森が存在している。

 その他、「ひとこと」の欄で作者全員の近況報告、課題詩のコーナーがあり、いままで長々と書いてきたようなことをアレコレ想像しながら、私なりにステキな時間を過ごして無事帰宅することが出来た。