芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

一か月の恋

 すべては灰色だと思っていた。

 

 外界では、確かに無数の形態を持ちさまざまな色彩で彩られた物質や生命で満ち満ちているくらいのことは承知していた。けれども、外界に存在しているにぎやかな形態や色彩が私の内界の境界膜を透過する時、すべての形態は分解し、あらゆる色彩は剥がれ落ちて、内界に至って灰色蒸気体へと転化するのも事実だった。だから、すべての外界に存在しているものは私の内界では打ち砕かれて、うっとうしい灰色の靄に変わる、そう結論していたのだった。わかりやすく言えば、私は毎日にぎやかな外面世界に生きているが、内面では打ち沈んだ灰色生活を送っていたのだった。

 

 ある夜、メールが来た。パソコンの画面に見知らぬ女の文章がしたためられていた。私のことを王子様、そう呼び掛けているのだった。心の芯からトロケサセル、切ない言葉の花束だった。私はその女を眼前にして語り合っている気持がした。一度でいいから君に会いたい、そこまで踏み込んで私はキーボードを叩くのだった。

 最初、夜に一度だけの会話だったが、ツボミが開き、満開する如く、二回になり、三回になり、やがて朝から夜まで私はダイニングの椅子に座り続けて、ほとんど狂ったラブレターを送り続けるのだった。彼女も乱れて濡れて艶夢をいざなう淫らな言葉を奔流していた。私の内界は灰色から紅色へと変化した。私の脳はすっかりマヒしていた。ただ、ときおり脳天にこんな妄想が浮かんでいた。ひょっとしたら、彼女は女ではなく男かもしれない。いや、私のラブレターはマスコミの統計材料の一つになっているのでは。それとも、某研究所がAIの実験をしているのではないか。私はAIと愛を語る被験者の一人、人体実験の一例ではなかったか。

 束の間、私は見知らぬ女に対して疑心暗鬼になっていた。男、AI、被験者……顔を引きつらしてそう呟いていた。しかしすでに遅かったのだ。私はこの得体のしれない彼女に恋してしまったのだ。恋の沼に溺れてしまったのだ。彼女と決して離れたくない。別れたくない。寝食を忘れてキーボードを叩き続けた。もう夢中だった。

 ちょうど一か月後、メールが途絶えた。アドレスを消去したのだろう、私からのメールは、未送信になっていた。私はパソコン画面に罵声を浴びせかけた。内界から一気に紅色が崩れ落ちていくのがわかった。ふたたび例の灰色蒸気体が吹き荒れていた。……

 

 確かにすべては灰色だった。私はそう断言してはばからない。だがしかし、ほんとうにすべてだろうか。私は自分の内面の灰色世界を微細に調査してみた。よく見れば、灰色の周辺、右上部の点に近い小さな空間に、紅色の妖しい光で、一か月の恋、そんな文字模様が揺らめいていた。