芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

「風のたより」25号を読む。

 これは特異な同人誌といっていいのだろう。

 

 「風のたより」25号 発行所 風のポスト 2022年6月1日発行

 

 なぜ特異かといえば、執筆者五人それぞれがすべて別次元の表現世界に向き合っているからだった。詩作品も入っているが、詩の同人誌ではない。自分流表現世界の同人誌だ、そう言っていいのかもしれない。

 まず、若月克晶の作品「カラーズ・オブ・マイ・ライフ」という世界。この作品は人間の関係性を具体的に描いたある日の日録。仕事場、そこに登場する主人公「ぼく」は経理担当者だが、勤務先での人間関係、退勤後に立ち寄った祖母との関係、また、夜、帰宅途上で起きた第三者のケンカを「ぼく」なりに制止しようとしてはからずも出来上がった被害者との関係、これらの関係がこの作品の題名になっている音楽をバックグラウンドミュージックにして展開されるのだった。

 小坂厚子は「詩」という世界だった。「~新宿三丁目、紀伊国屋書店ウラ~」、「~チェリーブロッサムズ2022~」の二篇。こういう言葉の表現って、どういえばいいんだろう? 詩の題が「~」で囲まれているし。確かイタリアで間違って偶然誕生した食後のデザート、あのティラミス、私はトテモ好きなデザートだが、こんなオシャレな味がする言葉のデザートなのか。しかし、待て。「空襲警報も/解除のようで」(「~新宿三丁目、紀伊国屋書店ウラ~」第2連6~7行)、こんなアヤシイ戦時中の言葉が出てくる場所の出来事ならば、糖分よりも塩分のほうがきついデザートなのかもしれない。

 松岡祥男の場合、「松」と「猫」の弁証法的対話の世界だった。この作家は、対話の焦点を微妙に移動させることによって作品全体を多層化していく。その多層圏へ読者を引きずりこみながらダンテのように旅案内しようとしているのだろうか。登場人物もざっと観て、吉本隆明、岡林信康、ヤマハ、中島みゆきから鎌倉諄誠へ。三島由紀夫、江藤淳、プーチン、安倍晋三、その後に、「アメリカは日本をアジアにおける重要な同盟国と位置づけていても、命運を共にするつもりなどないぜ。そんなことは分かりきったことだ。」(本書14頁)、こんな弁証法的反語がくっ付いてくる。その後も、様々な登場人物が出没し、詩も引用されて、結末に至ってウクライナ問題へのこんな発言が出て、終幕する。

 

 「いまもウクライナでは戦闘がつづいている。わしらはこの戦争に乗ずる<背後の鴉ども>を、まず撃つべきなんだ。」(本書20頁)

 

 一方、松本孝幸の場合、「<線>から見たマンガ表現(3)」という作品で、表現の根源から<線>を具体的に解明してマンガ表現を理解していこうとする世界だった。確か前号だったか、この作品の読書感想文で私はマンガも吉本隆明もほとんど読んでいないことを告白した。従って、この作品に関して言えば、私は前回同様、傾聴する以外にない。部の厚い、意欲作だ、私はそう思っている。ただ、商品の二重性、言うまでもなく使用価値と価値、マルクスの「資本論」第一巻の所謂価値論のことだが、この二重性と言語や線の指示表出性と自己表出性の二重性がどのように関係しているのか、不勉強な私にはよく理解できなかった。今後の展開を楽しみにしている。

 最後は、伊川龍郎の「夢の言葉は<戦争>をとらえるか」という作品で、あえていえば、ジョン・レノンとプーチンを同時的に経験する世界だった。老若男女を問わず、すべての人々の心にこの二人の夢のどちらが強く浮上してくるかが、第一義的な問題だ、私は著者がこの文章書いた意図をこう読んだ。これは戦争に反対する、あるいは賛成する一歩手前に存在する人間の心の夢だった。従って、著者はこのように主張するのだった。

 

「日本の憲法9条には、戦争放棄と国軍放棄が書きこまれている。人類の夢が平板な法の言葉にはさまれている。幼児性の夢言語の段階が差し込まれて、世界普遍性のある条項だ。よくいわれる現実からの距離をふまえてそう言える。吉本さんはこの条項だけは、日本国憲法の法言語から1オクターブ違うという意味のことを言った。この1オクターブ違う背景には、第二次世界大戦によって引き起こされた日本列島の兵士および大衆の大量死がある。」(本書34頁)