芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

「幻想と怪奇」第五巻から「表現主義時代の幻想」を読む。

 表現主義、そんな言葉を耳にすれば、いったいどんな作家の名前が脳裏に浮かぶだろうか? 例えば、カンディンスキーか? カフカか? トラークルか? シェーンベルクか? 一九一〇年代から二〇年代半ば辺りにドイツ周辺で閃光を放った、人間の内面を大胆に露出した特異な作品群を思い浮かべるのか? もちろん、彼等の背景には、第一次世界大戦前後のヨーロッパの地獄、ヘドロや血や脳漿や火薬などで腐りきった緑色のゼリー状態の巨大な抽象画が張り巡らされているのだが。

 

 「棺たち」 ゲオルク・ハイム作

 「狂人」  同上

 「暗殺計画」 アルバート・エーレンシュタイン作

 「或る子どもの英雄的行為」 ミュノーナ作

 「奇蹟の卵」 同上

 上記作品はすべて深田甫訳で「幻想と怪奇第五号」(歳月社、1974年1月1日発行)の「表現主義時代の幻想」コーナーに収録された作品。

 

 二十四歳で事故死したハイムに関しては、ご存じの方は多いと思う。彼の作品「狂人」を読むのは、私にとって何故かこれで四度目だった。ここには絶望しかない。この世に存在しない方がいい作品が、たまたま存在してしまった、そんな言語性狂気物質だった。「棺たち」のほうは、葬儀屋の倉庫に保管されている棺たちが、ある種の生命体だった。息づかいばかりか、深夜、棺たちは外界を認識し、ヒソヒソした会話さえ洩らすのだった。

 エーレンシュタインの「暗殺計画」は、オーストリアの君主が同盟国の猿族の国王、猿のハーヌマンと同じ馬車に乗って、ウィーンの王宮ホーフブルクへ入場するのだが、その間の行進中、奇妙な暗殺計画が実行される。その当時の政治状況を皮肉るナンセンス物語だろう。

 ミュレーナの「或る子どもの英雄行為」は、赤い針鼠のような姿で生まれた子供が、自ら進んで大きなガラス壜に入ってアルコール漬けになり博物館の標本になるのだが、その行為に博物館の館長や両親が歓喜の涙を流す物語だった。「奇蹟の卵」は、砂漠で巨大な卵に出会った荒唐無稽な妄想を言語化したものだった。

 ざっと、こんな次第だった。どこからこんな物語が発生するのだろうか? ひょっとしたら、「外面を破壊する時代は、必ず内面も破壊する」、こんな人間原理が作用しているのだろうか?