芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

アンデルセン、サド、そして国家

アンデルセン全集第4巻(高橋健二訳、小学館)を読みました。ボクは好きだから読んでますが、確かに全集を全部読んでしまうのは大変なので、例えば、この集の中で「お茶のポット」だけでも読んでみてください。413頁から415頁まで、わずか3頁ですからすぐ読めます。中身はお話しませんが、アンデルセンの思考が凝縮されてとてもわかりやすく表現されています。彼の世界では、人間だけでなく、花も鳥も木も机も人形も花瓶もお皿も、それに盛られたお料理までも、そうです、ありとあらゆるものが好き勝手におしゃべりします! 自分の思想や経験や将来の希望まで!

同時並行して読み続けているマルキ・ド・サドの関連では、彼の主著「悪徳の栄え」(角川文庫、澁澤龍彦訳)を174頁あたりまで読みました。617頁ありますが。既に40年以上も昔に読んだ本で書棚の奥から引っぱり出しました。唯物論を中心にした本格的な哲学書だと思って下さい。エロ・グロを期待して読むと、必ず失望して、本を投げ出しますよ。

余談ではありますが、最近、国家とか国益とか、そんな言葉が熱心に飛び交ってますが、ひょっとしたら近代に成立した国家をあたかも永続するものであり、国益が人間にとって一番大切なものだ、そんな倒錯したイデオロギーを信じている人がまだ少なくないのでは。

ボクが若い頃にお勉強して感心した思想家に経済学者の宇野弘蔵がいます。誤解をおそれず簡単に解説します。さて、人間は一日働いたら自分の一日の食い扶持以上のものを生産する、でなけりゃ、奴隷所有者は決して奴隷を所有しないだろう。つまり、人間の本質として、人間は一日働いたら自分が生活する以上のものを生産する、経済学の用語では、人間は剰余生産物を生産する、これが経済原則である、とこう宇野先生はおっしゃる。

けれど人間が剰余生産物を生産したからといって権力社会が発生するわけではありません。その剰余生産物をある特殊な階級が収奪することによって発生すると言っていい、あるいは逆に言えば、剰余生産物を収奪する連中が発生して権力社会が成立した、おそらくそんなところでしょうか。

でもまあ、この辺で止めておきます。アンデルセンのお勉強が終われば、ヘルダーリンと彼を積極的に論じたハイデガーをやる予定です。その後に、若き日の思い出に宇野弘蔵先生ともう一度向き合うつもりです。彼によれば、国家の基本は財政です。イデオロギーでも、まして絶対的な何物か、でもありません、こんなこと、中学校や高校の教科書を虚心に読んで冷静に判断すれば、あたりまえのことなんですが。