芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

詩集「黙礼」から

おおよそ2000年前、処女マリアから生まれ、ゴルゴタの丘で十字架につけられたキリストであるイエスという男、僕は長い間、この「キリストであるイエス」につきまとわれ、あるいは悩み、あるいは笑い、あるいは困窮してきた。

来月、ついに僕は彼が生まれたベツレヘムから、あのしゃれこうべゴルゴタの丘まで、幼子の時に逃れられたエジプトの地を除き、ほとんどすべての足跡を辿ることになる。もちろんキルケゴールもいうように彼と同時代に生きたといってとりわけ優位性があるとは思えないし、まして2000年もたった彼の足跡を訪ねたからといって、特段言うべきことは何もあるまい。

イスラエル行11日間の内、上ガリラヤに2泊、エルサレムでは3泊する。周知の通り、イエスは多くの奇跡や説教をガリラヤの周辺で開示された。その中でも、ガリラヤ湖上を歩かれた話は印象に深い(マタイ第14章22-33、マルコ第6章45-52、ヨハネ第6章16-21)。そしてさらに興味深いことではあるが、この話はすべてパンと魚の奇跡の後に書かれている。つまり人はここにおいてイエスの物語がバカバカしくなって投げ出してしまうであろう。

僕は、今から三十年前、詩集「黙礼」の中で、この物語のカリカチュアを詩に書いてみた。

水上歩行

水の上を歩くと
あなうらはとても
ひたひたする
ときおり死体のようなものが浮いていて
ふやけた頭をふんでしまう
ずるりと足首までぬめりこむが
襟を正して
しばし歩をとどめ 四辺に気を配り
さらに水上を行く
落ちつけと連呼しながら

もちろん今回の旅行は新約ばかりではなく旧約の世界、例えばベエルシバなども訪問する。僕の個人的な趣味に過ぎないが、「塩」という物質に異様な生命体を感じるのだが、これもやはり聖書の影響があるに違いない。確かに聖書は塩に隣接している、三割が塩だという死海に沿って。「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。」(マタイ第5章13)、また、「塩は良いものだ。しかし、塩もききめがなくなったら、何によって塩味が取りもどされようか。」(ルカ第14章34)。
しかしなんといっても、塩に関して言えば、創世記第19章だろう。「しかしロトの妻はうしろを顧みたので塩の柱になった。」(創世記第19章26)。この章も含め、僕は創世記、出エジプト記を何度読んだことだろう。旅行でも、エン・ポケックの南にある岩塩でできたソドム山の中腹、ロトの妻の塩柱を訪問する。同じく僕の詩集「黙礼」から。

挨拶

頭のまんなかから
ふたつに髪をわけると
その間に
小さな穴があいている
それとはしかと見えないけれども
おじぎをするたびに
塩が少しこぼれる

イスラエルは日本の四国をひとまわり大きくしたくらいの国である。その一部分の小さな場所で、古来から虐げられていた貧しいユダヤという民の中から、キリストというイエスが出現した。