芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

吉本隆明の「シモーヌ・ヴェイユについてのメモ」

 シモーヌ・ヴェイユに関して言えば、私は無知である。ただ、二十代前半、私と同じ屋根の下で暮らした「えっちゃん」という女は、シモーヌ・ヴェイユの著作集全五巻(春秋社)を持っていて、おそらく尊敬していたのではないか、私はそう思っていた。しかし、ペラペラッと頁を繰った程度で、しっかり読んだ記憶はない。何故か、いずれ読んでみよう、そんな意欲を持った記憶は残っている。

 私のワイフ「えっちゃん」がこの世を去ってから、一時期、彼女の所有していた本で未読のものを読み漁った。だが、いまだ、シモーヌ・ヴェイユまで手が届いていない。

 

 「シモーヌ・ヴェイユについてのメモ」 吉本隆明資料集89 猫々堂 2009年10月15日発行

 

 つい、前置が長くなってしまった。吉本隆明のこの本を手にして、読もうか読むまいか、迷った。迷いつつ、一読してしまった。というのも、積極的な理由などないが、私は吉本隆明の本はほとんど読んでいない。十九歳の頃、今から言えば五十二年前、西宮市役所の鳴尾支所でアルバイトをしていた。小さな図書室があり、地下に薄暗い書庫があって、私は吉本隆明の三冊の本、「芸術的抵抗と挫折」、「抒情の論理」、「自立の思想的拠点」、書名の記憶違いがあるかも知れないが、これらの本を手にして一読した記憶が残っている。さらに、吉本隆明著作集第一巻「定本詩集」(勁草書房)と「共同幻想論」(河出書房)を買ってみた。

 まだ二十歳になるかならないかの若造で生意気な私は、吉本氏の書いた「転移のための十篇」を詩として受容するか拒否するか、ここがこの思想家にさらに深入りするや否やのキイ・ポイントになるのではないか、そう結論して、以後、吉本隆明の著作を手にすることがなかった。若気の至りだったかも知れない。

 この度、「シモーヌ・ヴェイユについてのメモ」を一読して、私は積極的な発言をすることは何もない。まず、先にも言ったとおり、私自身がヴェイユについてまったく無知であるから、彼女についてのメモをどうのこうのという立場にはない。ただ、このメモを読んでいて、ヴェイユの自己否定は、形而上的な主体としての自分を徹底して絶対否定するばかりではなく、事実この世に存在する身体をもこの世なるものとして絶対否定してゆく、この身心両面の絶対否定の痛みの中で、神の到来を待ち望んでいる、私の眼前にヴェイユのそんな痛ましい姿が浮かんでいる。この修行方法は、おそらく釈迦に近いのではないだろうか。

 その他にも、スターリンの「一国社会主義」建設の問題、この問題と共に提起される精神労働と肉体労働の社会的分離・断絶の問題、ヴェイユは受洗していないが、信仰か無信仰か、むしろ無信仰の中に本来の神が現前するのではないか、また、この世の重力から上昇した芸術や科学の果てに接触する神の問題、こうしたさまざまな問題をこのメモは内包する。

 いずれ「えっちゃん」が愛したシモーヌ・ヴェイユ著作集を熟読する時が、私にやってくるだろう。その時、もう一度この「メモ」を開いてみよう。