どうしても余分な話をしておきたい。周知のとおり、阿弥陀経で「倶会一処」という言葉が出て来るが、いまさら言うまでもなく、別れた人と浄土で再会できるというのであろう。この教えは、我が国の民衆が浄土系の宗教を信じてきた大切な理由のひとつだったろう。
これまた、いまさら言うまでもないのだが、法然は「選択本願念仏集」の中で原始仏教で説かれた生老病死の四苦からの解脱だけではなく、あえて五苦、すなわち愛別離苦からの解脱を説いている。愛した人との別離が浄土に於いて倶会一処、再会できるという信仰が、いかに人間の根源的な苦しみからの救済であるかが多少ご理解いただけるであろう。
余分な話はこれくらいにしておきたい。ただ、当たり前の話ではあるが、そして残念でもあるが、愛別離苦は体験した人でなければ、その真実はわからないだろう。いったいどんな苦しみなのか。愛する人を喪うことは。愛する人が永遠に不在のまま、ひとりぼっちでこの世を渡るということが。
このたび私が読んだ本は、この消息を伝える歌集だった。
歌集「みづおち」 冨永多津子著 風詠社 2019年12月3日発行
あくまで私の思いに過ぎないのではあるが、この本は、昨日、芦屋芸術のブログに読書感想文を投稿した冨永滋の句集「提外日記」の、あえていえば、補遺、両書で一冊の世界を構成しているのであろう。両書の奥付をご覧いただきたい。発行日は両書とも2019年12月3日だった。また、冨永滋と冨永多津子は夫婦であって、2015年に亡くなった夫の死後、この二冊を同じ日に出版している。そのうえ、「提外日記」の編集者・挿絵・装丁者は妻多津子だった。
まだ夫が健在だった時、著者はこんな歌をものしている。
この空に擲つ紙のひこうきをやがて水路が連れて行くらむ(本書34頁)
カーテンの裾を動かし夜の気は水流私は眠らぬ魚(本書53頁)
視覚的で、どこかモダニズムを覚えさせる筆運びだった。
この一首も読んで欲しい。著者は2012年から月の半ばを母の介護のため実家の九州へ帰っていたのだが、その折、母の書いた一句が歌の中で紹介されている。私はこの一句、ステキだ、感心して読ませていただいた。
「バスの中花が取り持つありがたさ」認知症四年の母書き給ふ(本書67頁)
この歌集は二十余年間の作品をまとめたものではあるが、やはり、二〇一五年、夫が死去した年の作品が圧倒的に多い。そこに私はこの歌集が成立した原動力を見たのだった。つまり、冒頭で長々と言及した愛別離苦という。
その年の秋から夫の病状は急激に悪化したと思われるのだが、それまでの作品をご紹介しておこう。
古所帯ながらアルミの新しき物干し竿の行間に星(本書82頁)
この二首は並んで置かれているが、ちょっとミステリアスな味がして少し不気味じゃないだろうか。
古屋の毀たるる日ぞ暗部より生身の湿り陽へ揺るぎ出づ(本書101頁)
毀たるる家の戸口を差し覗く暗きふところに誰かなお暗く(本書102頁)
ここから、夫の最晩年を共にした著者の歌を三首ご紹介しよう。まず、最初の一首は夫の余命を医者から告知されたとき、口をついて出た言葉だった。
ぬばたまの晴れし夜空も雑踏も茶碗も椅子も遠退きにけり(本書153頁)
そして、夫が入院した日々の中で。
購ひし花束水に漬けたれば蟻が這ひ出る白き陶器に(本書155頁)
飯櫃に飯饐えいたり三日四日重心どこかに失ひし秋(本書156頁)
夫はもうこの世にいない。最後に愛別離苦の歌を二首ご紹介して、ひとまず、この歌集を閉じようと思う。
美しき命を見たしふと起きて暁の野の競馬場へと(本書173頁)
片頬を焦がして歩く土手道は影なんとなく足に絡まる(本書189頁)