芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

後藤光治個人詩誌「アビラ」12号を読む。

 個人詩誌を毎号新しい味付けを加えながら緻密に作り上げていくのは至難の業である。同人誌の場合、基本的には、各人の書き手にゆだねたその作品群をいかに束ねて編集するかが編集者の肩にかかって来るのだろう。だが、言うまでもなく個人誌の場合、書き手はそのまま編集者だった。西田哲学流に表現すれば、表現者即編集者、こうなるのだらう。私が住んでいる関西では、エライコッチャ、こういって差し支えない。

 

 後藤光治個人詩誌「アビラ」12号 編集発行 後藤光治 2022年12月1日発行

 

 よくぞ十二号まで足を運んできた、それが素直な実感だった。言葉の奥底が異常に深くないとこうした言語行為は成立しない。少なくとも私はそれを熟知しているつもりだった。それはさておき、今号を簡潔に紹介したい。

 まず、巻頭に「ロラン語録」を掲げている。私は思うのだが、これほどにまでロマン・ロランを腰を据えて凝視する詩人は、おそらく日本では彼が第一人者であろう。

 次に、≪詩作品≫。六篇の詩で構成されている。この詩群の中で、今回はこの詩人の所謂<吹毛井詩篇>に属する作品は、「屋根」と「乾燥場」の二作だった。わざわざ私が吹毛井詩篇と概念したのも、他でもない、この詩人特有の<記憶の現在化>、もう少しわかりやすく表現するなら、永続する記憶の言語化、あるいは、記憶の永遠性への問い、とまあ私流儀に定義する次第だった。後の四篇はさまざまな主題を求め、表現している。青春時代の心を言葉で再構成したり、ごく最近の社会の出来事にまで近づいて言葉にしている。もともと<吹毛井詩篇>は永続する記憶を表現するもので、逆に言えば、その場限りの事なかれ主義の現代流へのひそかなそれでいて強い批判を根柢している。そして<吹毛井詩篇>を超えんとするこれからの展開を期待するのは私だけではないだろう。後藤氏には極めて重い仕事だろうと推察はするが。

 また、≪ロマン・ロラン断章(十二)≫はミケランジェロとロランへ言及し、≪清水茂 断章≫では清水茂の詩集「冬の霧」を中心に論じている。この詩集は清水茂が六十五歳の時に発表したものだった。確かに後藤氏も指摘する通り、紙面に紹介された作品を読む限り、少し抽象化に傾きすぎた面はあるのだろうか、僭越ながら私もそう思った。おそらく次号では、「晩年の詩にはこの抽象性の上に、具体的な場面の描写が加わっている。」(本書23頁)、その具象的作品の紹介がなされるのだろう。次号が楽しみである。

 ≪詩のいずみ 忘れ得ぬ詩人(長尾軫、鈴木漠、新保啓、山下徹)≫では、後藤氏が第一詩集から第三詩集を出版し、またこの個人詩誌も含めて作品を発表している時間の中で、多くの詩人と出会ったことを報告している。また、その中でとりわけ印象の深かった四人の詩人をあげ、作品を紹介しながら彼の思いを語っている。そこには、ある意味で、彼の基本的な詩に対する心構えが表現されているのだった。

 最後は、≪鬼の洗濯板 斎藤茂吉の短歌―沈黙―≫。この作品は後藤氏が若いころに書いた論考を改稿したものだった。沈黙と沈黙の間に言葉が浮かんでいた。