芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

菊の花びら

 T君。

 ここしばらくご無沙汰しておりましたけれども、その後貴君はいかがお過ごしでしょうか? 元来とても気丈で本質的に楽天家の貴君ならば高らかな哄笑さえ発してこのあさましい手紙を一読されるであろう、小生はそう信じて疑いません。貴君の明るい笑い声さえ聞こえる気持ちがして、書き終えた後、しばしホッとする思いがしています。

 ところで、正直に申し上げますと、小生、まったく大人気もない恥ずべき決着ではありますが、この手紙を最後にして貴君と永遠にお別れしなければならない羽目に至りました。言ってみればこの手紙は貴君への別れの挨拶です。ええ、そうでしょう? 恥ずべき決着です! 羞恥のあまり赤面してほとんど死にそうになってしまいます!

 それにもかかわらず、たってのお願いと申しますのも、今まで貴君にたびたびお送りした手紙をー無論この手紙も含めてーすべてことごとく焼却していただきたい、これであります。かつていみじくも貴君がフランスの某作家の文章を引用して指摘した通り、ある意味において小生の手紙は、<名も知れぬ恋人からの手紙を創作しては自分宛てにポストに投函する男>、そんな偏執的と言ってしまってもいいような色合いを帯びていただろう事情も否むわけにはまいりません。のみならず貴君は常に注意され一笑に付されてきましたが、確かに小生の手紙は常軌を逸した神経的幻覚に満ち満ちていた、そう断言されても致し方もないのでありましょう。それはそれとして、そういった疑惑に対する明確な回答は、おそらく明日の夜にでもなれば、そう、ちょうどこの手紙が届いて間もない明日の黄昏時から夜半にかけてだろう、そう思われますけれども、たとい楽天癖のある貴君にとっても具体的に納得のいく事実となっているはずだ、もはや小生はあらかじめここにハッキリと断言してしまってなんら憚ることもありません。

 

 さて、もうすでに何度も繰り返してお伝えし訴えてまいりましたので、さながら手慣れた暗号でも解読しおさらいするふうな具合になってしまった状態ではあります。けれどもこうして現在あらためて手紙をしたためております間にも、どうやらあの恥知らずな奴がカサカサ蠢き始めてまいりました。あの恥知らずな奴……ええ、確か三年ばかり前にまでさかのぼるでしょうね。どうです? 貴君は憶えているでしょうか?

 ねえ、貴君、ホントに憶えてくださっているでしょうか? ごめんなさい、ついつい疑ってしまって! でも貴君が余りに楽天家でいつもワァハッハッハと笑ってばかりで何もかも受け流しておしまいなので、ひょっとして貴君は記憶なんぞという代物とはまったく無縁なお人柄ではあるまいか? ふとこういうふうに姑息な猜疑心を抱いてしまった次第でございます。そうでありますからして、ここにもう一度あの忌まわしい出来事の概略を再確認する意味合いで書き連ねておきたい、またそれと同時に、今まで伏せておりましたが、小生、あえてこの忌まわしい出来事の成れの果ての顛末をもここにしたためておこう、ひそかにかく決意してしまいました。どうぞこんな決意を笑ってお受け取りください。もちろん、先に申し述べました通り、すべての真実は明日の黄昏から夜半になれば現実となっているであろう、そんな一事にかかっておりまして、当然ここではまだ単に想像されただけの結末にすぎませんけれども、寛容な貴君、それだけはお許しください……

 

 先程からじっと常日頃愛着している椅子にほとんどうずくまるように座って肩を落としておりますと、三年前のあのまがまがしい奴が鮮やかに眼前に浮かびあがりその姿が実在するかのごとく描きだされてくるのです。今、窓の外で霧雨が降り、雨樋かそれともどこかの割れ目からピチャ・ペチャ幼児が飴でもしゃぶっているかの雨音がかすかに反響してくるのも、かえって不吉な序曲を奏でているかの感がします。もとより装飾嫌いの小生の部屋は簡素なもので、いま座っている椅子、古くてすっかり色褪せたテーブル、その上に白紙、インク壺、羽根ペン、赤と黒の鉛筆、消しゴム、紙ナイフ、虫ピン、そして一冊の本、おおよそそれくらいのものが雑然と並んでいます。これ以外の本は一切ありません。書棚や家具類、カーテン、絨毯まで取り払ってあの恥知らずな奴の予期せぬ襲来に満を持して備えています。ただ、さすがベッドと寝具類だけは部屋の片隅に三年前の通り横たわっておりますが。

 そうこうするうちにも、テーブルの上ではついさっきまでコソコソ蠢いていた忌まわしい卑劣漢が、例のごとく思いあがって我が物顔で、ガサゴソ・ゴソグサ陽気にはしゃぎ回っているじゃあありませんか! 浅ましくておぞましい限りと知りながら、奴には目をつぶって、全精力を振り絞って小生はこの最後の手紙にひたすらすべての真実を書き記そう、そう覚悟を決めてペンを走らせていました。

 

 貴君よ。本来ならばもう三年もたっているからとっくの昔にミイラになって干からび切っているはずのあの卑劣漢が、めぼしい家具という家具を取り払って荒涼としたこの部屋で、不思議にも血と生気とを得ていよいよ生々しく膨れあがってまいりました。なんて茶番だ! いったいこんな馬鹿げた話があるでしょうか。テーブルに残された一冊の書物、この忌まわしくて耐えがたい本の中でもほとんど絶句しそうな一文字にだけ魅入られてしまい、あげくの果てはしつこい不眠症に伴う眼痛に悩まされる毎日です。されど、小生自身驚きを禁じ得ませんが、超人的ともいえる何物かが脳からほとばしり出て、いかんともしがたく、この不吉なる一文字を幾度も幾度も復唱していたのであります。もしも宿命が存在するならば、よし、この一文字を宿命だとしなければならないであろう。それくらい思い詰め、錯乱して復唱しながら、小生は腐れゆく菊のごとくあの一文字に病んでいくのでした。

 

 どうぞこれです、ご覧ください、この一文字です。

「……例えばここに≪縄≫という文字がある。この≪縄≫という文字でさえ不意に……」

 前後の見境もなく唐突に本の中のこんな一節をもったいぶってあげつらうなんて、とんだ悪ふざけだ。というよりむしろ、下手なこけおどしで一笑を買う程度の下世話に過ぎず、実に噴飯ものだと思われます。でも信じてください。そうじゃないんです。例の忌まわしい書物のあの一文字≪縄≫は、既に実現されてしまったのだ、この一点を沈思黙考してくださいませ。何故と言えば、現に今やあいつがテーブルの上で、バッタン・ボットン、バタバタズットン、ボッスントントン……愉快に騒ぎたてている次第でありまするから……とにかく、今回の場合は、どうしても≪縄≫という一文字をできる限りの声を張りあげて注意しなければならなかった、まさに事実そうでありました。

 

 そろそろこの辺りで貴君の誤解というか曲解といえばいいのか、余りに頑迷な独断をすっかり解かなければならない、それが真の友情ではないでしょうか? というのも、ちょうど三年ばかり前から仲間内で小生は自閉症かあるいは強迫神経症に罹ったのだろう、可哀想な男だ、周りからザマアミロと言わんばかりに噂されて見下されていた事情であります。もちろんあの噂など真っ赤な噓偽りではあったのですが、これにはいささか小生にも重大な責任の一端を有していた、そう言わざるを得ません。すなわち、貴君もご承知の通り、その頃よりパッタリ小生は自室に閉じこもって、絶えて屋外へ出なくなったためでありました。少なくとも昼間は一歩たりとも! が、でも、真実はこうだったのです。……何度も繰り返して口幅ったく申し上げました通り、小生、三年ばかし以前より、今もテーブルの上に開かれている一冊の書物の中の殊に≪縄≫という文字へはなはだ注意を奪われて、その一点にだけずいぶん意識を集中してまいりました。その書物はというと、古色蒼然たる何故かしら静寂とした古書でありましたけれども、分厚い頁の内でもとりわけこの一文字、例の≪縄≫がすべての文字の中から鮮やかに浮遊してくるではないですか。あえてこの文字を避けようとすればするほど、いかんともしがたく小生はこの文字を凝視している事態にハッ!と気付いたのでございます。全体どうしたことだ⁉ 小生は思いをめぐらせました。例えば「スペードの女王」なんて作品を思い出したりしていました。いくら記憶から遠い場所で生活せんとする楽天癖の貴君でさえ、まず「スペードの女王」と聞けば、ハハアンあれだな、あのロシアの作家プーシキンのあれだな、くらい当然口をついて出てくるだろう。あの紙でできたトランプのスペードの女王が物語の結尾でニタニタほくそ笑みを浮かべたのと同様、何も≪縄≫という文字がニッコリ微笑んだなぞとは決して申しません。が、信じてください、事実≪縄≫という文字はですねえ、小生の眼前でクネクネ移動し始めたのでした……。

 

 サア、貴君よ、≪縄≫です、確かに≪縄≫という文字なのです。まったくそいつがピクピク震え痙攣して行間から行間へ歩いたりドンドン走ったりしながら位置を変化させていくじゃあないですか⁉ だからいくら小生が偶然この本のどこやらを開いて読み始めようと致しましても、まさしく例の一文字、

 

  縄!

 

 何たることでしょう、この一文字ばかりが膨らみ巨大化して目に飛び込んでくる羽目でございました。……そうこうしますうちにも、一年の歳月が過ぎてしまいました。ある夜、妙に胸をワクワクさせて小生はあの書物を覗き込んでおりますところ、不意に縄という文字が弛みほどけて、スルスルスルッ! 微かな音さえたてて書物から抜け出したのであります。見ると書物は文字ひとつ写さぬ純白な紙片へと変わり果てておりました。しばらく小生はびっくりさせられてただ唖然と立ちすくんでいましたけれども、ふと我に帰るや、ソウソウ、こんなふうな状態を他人にでも知られたらトテモ恥ずかしくってもう決して生きておれやしない! とまあ必然こんな認識に達したわけでございます。腹の底から憤りが沸き上がってまいりました。小生の面前でスックと立ちあがった縄に向かって、こぶしを振り上げ威嚇してやったものです。どうやら小生の切羽詰まった心情が通じてか、縄はおとなしくして元の書物の位置へ帰っていきました。

 

 明くる朝、ドット疲れが出たのか寝覚めが悪く、もう金輪際起きてなんかやりゃあしない! ありていに言ってそんなうらぶれ果てた気分に陥っておりました。なんのなんのあ奴にはこちらの都合なんて構っちゃいません。またしても小生の寝ぼけ眼に浮かんでくるものとて、書物からメリメリ音たてて抜け出してきたのだろう、それに間違いない。メリメリでスッカリ目が覚めてしまった。ありゃなんだ! 書物の全頁の紙面からメリメリはがれる擦過音をたててすべての文字が縄になわれて膨れあがって数珠つなぎになって出て来たんだぞ! ハイ。ハイ。貴君。どうぞテーブルの左側をご覧ください。あ奴がスンナリ立っているではありませんか!

 ハハア、そうなんだ。小生は熟考してみました。成程、縄みたいな化け物になめられてたまったもんじゃあない。ホラ、こんな奴はこうしてとっつかまえてやりゃあ何てこたあない、こうだ、こうしてやりゃいいんさ。と手を伸ばしてみますと、何と! あ奴もチョコッと後ろに飛びのいていくではございませんか! 小生ホウホウのていであ奴を小半時ほど追っかけ回してみました。だけれど、小生が一歩踏み出すや、早速あ奴もチョコンと一歩後ろへ逃げてしまう……グッタリ。ウンザリ。くたびれきってベッドの端に小生は腰を下ろしてしまいました。ハテナ。イヤハヤ。しばらく黙考しておりました。

 ソウダ! 両手をポンと打ち合わせたと同時、小生、急いで久しぶりに外出着に着替えますと、窓のシャッターを下ろして室内を密閉しました。ソロリソロリ、ドアに近づいていく一瞬、躍起となって表に飛び出し、ピシャン! 思いきしドアを叩き閉めてやったわけです。どうだい、あ奴を部屋に監禁してやったわい……それでもまだオドオドしながら辺りを見渡してみたところ、やはりあ奴は出遅れたらしく何処にも見当たりません。ヤッタゼ、ベイビー。フウーと一息ついた頃、ふとおかしくなってプウッと吹きだし、ウキウキはしゃぎ回りながらタップダンサーになって街路に向かって駆け出そうとしました。だけれどその時です。あ奴はいともこともなげに鍵穴からスルリスッテンすり抜けて来たじゃあないですか。で、小生、やや上唇を引きつらせて自問自答していました。どうなんだろう。ハテサテ。こんなふうな化け物にピッタリくっ付かれて街路を散策するなんて。通行人が後ろ指を指して、あいつ何てざまだ、いい年して恥も知らんのか、ワァ・ハ・ハ・ハ……そういった状況を考えるだけでも赤面し発狂するだろう! アア、なんてこった! 詮方なく肩を落として、小生は我が家へ引き返した次第でありました。

 

 ここまで追いつめられてしまうと、貴君よ、おそらく楽天家の貴君ならば、ただ単純明快に、あんたが悪いんさ、あんたは部屋を完全に密閉したとさも自慢げにタラタラのたまわっておられるが、全体鍵穴に粘土くらい詰めておく器量は持ち合わせていないんかね。とまあそんな具合に非難揶揄されるんだろう、そう思われますけれども、なにせ、相手が相手。とんでもない話だが≪縄≫という文字生命体がこの世に存在する。言うまでもなく現在の科学では想定外の新生命体でありますが、この奇妙奇天烈な大発見にびっくり仰天させられた余り心中はあたふたあたふた、うろたえまごつきましたのみならず、なんだかあらかじめこの新生命体≪縄≫に対して、うまく表現はできかねますが、完膚なきまでの敗北感に似た感情に我が心は締め付けられ、身動き一つ出来ずじまいになってしまった、そう言わざるを得ません。いや、ちょっと待ってください。あえて言わせてもらえば、生来楽天家ぶった貴君にはそこんとこの微妙なデリカシイなんぞ全然お持ち合わせではないだろう、こう判断したくなってしまうのも人情ではありませぬか。

 貴君! ながながと繰り言を申し述べてまいりました。これもひとえに友情のなせるわざ、そう思いなしてご勘弁ください。そしてどうぞご安心ください。そろそろこの手紙も終わりに近づいてまいりました。これから最後の事柄を筆にする、そんな決意と共にしきりに不安が、貴君との別離への不安が込み上げてまいります。笑ってください。じっとこらえて沈黙してしまいますと、次から次へとあふれ出てくる言葉が脳髄に永遠に凍り付いてしまう、脳内で言葉が増殖してドンドン凍結し果ては巨大な氷山になってブッスン!ついに頭骨を粉砕する……チラチラそういった幻覚に苛まれ、ですから、いてもたってもいられず、絶えずまくしたてているんです。言葉を口から放出しているんです。チョット小生の頭をご覧ください。チクチク・ゴシゴシ! 今にも言葉の氷片が脳を刺し、グジャグジャに抉り取ってしまえと待ち構えておるんです。イイエ! そればかりか、おしゃべりしないで沈黙しておりますと頭にたまった言葉の氷が増殖する振動で眼球がポコリはずれ落ちそうな気持ちさえ致しますけれども、事実あ奴はその瞬間を逃すまいと真顔になって小生をねめつけているではありませんか!

 

 アアそうしてまた貴君! 先程までガサゴソ陽気に縄ダンスを踊っておりましたあ奴めが、何を思ったか、スックとテーブルの上で仁王立ちになり、頭には箱のようなものを載せて、エヘラエヘラ笑いながら、

「貴様! この標本箱を見ろ! 虫ピンで固定されたカミキリムシになってこの中でくたばっちまえ!」

 うるさく喚きたてるのでございます。それでも、今夜はこれでオシマイです。縄の生命体もやはり生命体である以上、縄ダンスで騒ぐ時間もあれば、そッと静かに小生の首にまとわりついて休息する、そう言った時間も必要だと耳もとでささやいております。いわば≪別離への予行演習≫とでも申せましょうか。でありますからして、きっと明日の夜にでもなれば、あ奴は小生の首に飛びかかりまして、拒食によって干からび切ってスルメみたいになった小生の首とそれにつながる胴体をミシミシ思いきし吊るし上げてくれるだろう、とまあ予見されるわけであります。

 ハッキリ申しましょう。小生は貴君のような楽天家の道を踏み外して今に至ってしまいました。ですから小生はかつて誰をも愛さず、また、誰からも愛されない人生を渡り歩いてまいりました。いや、そうではないかもしれません。ただひとり、この縄生命体だけは、ひょっとしたら、こんな惨めな小生を心から愛してくれたのではないでしょうか。貴君よ。多少感傷的になってしまったのかもしれないけれど、ことここに至って、思い余って小生は、縄! 縄‼ 縄⁉ 縄⁇ そう叫んでしまいたい衝動に駆られてしまいます。が、誰に向かって叫びたいのでしょう? いったい何に向かって呼びかけようとしているのでしょうか? のみならず、全体叫ぼうとするこの小生自身がほんとうに存在するとでもいうのでしょうか? 生きるということは宇宙の終着駅ではないのでしょうか? 生命は物質の最終段階、物質のなれの果て、ゴミ捨て場ではないでしょうか? 貴君。こんなザマです。小生はもはや自分では手に負えない衝動と不安を覚えるばかりであります……。

                          限りなき友情を寄せて Yより

 

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 きのうの夜半からいつとも知れず降り始めた霧雨が、きょうになってもまだ降り続いていた。一日中黄昏とも見える暗澹たる日だった。わたくしは例のごとく帰路を急かすのだった。霧雨だというのに、レインコートがずいぶん濡れていた。

 

 わたくしはひとり部屋の中で立ち竦み、呆然としていた。左手に一通の手紙を握りしめていた。もちろん、Y君からの手紙。……何故かしら彼の手紙を読み終えたわたくしは、厳しい判決を突き付けられてしまった思いにとらわれていた。寂しく痛ましい感慨さえ抱かなくもなかった。……濡れてくしゃくしゃになったレインコートを再び肩に引っ掛け、あわててわたくしは霧雨の降る街路へ飛び出していた。蝙蝠傘を手にはしていた。けれども一刻を争って飛び出したため、まるで蝙蝠傘を恋人のように胸に抱きしめて先を急いでいた。霧雨に降りこめられながら、マラリア風の熱病を患ってしまったかのごとく、我を忘れてオロオロしてY君の家に向かっているのだった。Y君を救えるのはわたくしを除いて誰もいない、そんな焦燥感に苛まれて歩を急かしていた。

 

 門前は人だかりで混乱していた。遅かったのか。既に何かが起こってしまったに相違あるまい。当然Y君を助けなければならないのだけれども、人いきれにまみれて身動きが取れず、同時に、こんなことはたいしたことでも何でもないんだ、わたくしはそう解釈して自分を納得させているのだった。隠さずに言おう。これがわたくしの真実の姿だった。Y君が手紙で何度もうるさく指摘していた通り、元来楽天癖のあるわたくしは友情が欠落してしまった人として、微塵の心情も持さない人非人として、宣告され辱められていたのだった。要するに、わたくしもまたこの人だかりの中の一人、友情を喪った野次馬のひとかけらに過ぎなかったのだ。……と、突然、見覚えはあるが、異様なまでに変わり果てたY君の姿が半ば開かれたドアから垣間見られたのだった。

 

 果たして真実この人がY君なのであろうか? 覚えずわたくしの胸裏にそんな愚問が突き上げてくるのだった。逆巻き乱れた頭髪の下に、もちろんY君の顔らしきものがボンヤリくっついているのだけれど、さながら青ざめた海綿めいてクニャクニャ判然しない歪んだ顔面の下部を支える首には電気コードがまとわりついているのだった。そればかりではない。電気コードの両端はしっかり彼の両手で握りしめられていたのだ。言うまでもない。おおよその異常な事態を予感してここまで駆けつけてきたのだが、わたくしは愕然とした。事態はここまで悪化していたのか。……修羅場が演じられていた。Y君の右腕に縋りつくようにして彼の母親が泣きじゃくっていた。

「Y! ねえ、ねえ、Y!」

 しかし、Y君は両手から電気コードを離そうとはしなかった。

「おかあさんよ、Y、ホラッ、ご覧、ホラッ、ホラ、Y!」

 ボロボロ涙をこぼしながらしきりにこう叫んでいたのだった。それに答えて、Y君はヘラヘラ笑いながら口角泡を飛ばしまるで涎さえ垂らして、

「縄だ! 縄だ! 大発見! 新生命体、文字生命体!」

 何やら大声で喚き続け、さらに電気コードを五重にも七重にもグルグル首へ巻きつけてはギュッ・ギュッ・ギュッ・ギュッ引っ張りまわしていたのである。ついに彼の両肩を白衣の人が二人がかりでしっかり押さえつけて、こんなふうになだめていた。

「Y君、ねえ、そうだろう、Y君!」

 唖然としてしまったわたくしの視界には、霧雨のようなものが降り続いていて、人だかりも見えなかった。ボンヤリ靄のかかった光景の中から、わたくしとは無関係になってしまってもはや他人事の大声が聞こえるばかりだった。

「Y君、オイ、目を覚ましてくれ、オイオイ、Y君ったら!」

 誰かが、あるいは人だかり全体だろうか、ワイワイ喚きながら、わたくしの両腕を引きずっていこうとするのが知れた。わたくしは今にも泣きだしそうにべそをかいて首を横に振りながらイヤイヤを繰り返していた。そのうえ驚くべきことだったが、群衆はわたくしの眼前の人の壁だけを開いて、サッと両脇に列を連ねていたのだった。

「Y君、ねえ、縄だねえ、そうだろう、縄だねえ、そうだ、そうだよ、Y君!」

 その時だった。何か影のようなフンニャリして縄に緊縛された物体がスーッとわたくし、いつもTと呼ばれていたこのわたくしの背後からひそかに重なってきたのだった。それは例えばY君の首とこのわたくしTの首とが電気コードでしっかりつながれてしまった人体実験への不安だった。さらに類推してよければ、群衆や母や白衣の人によって無理やり街路樹の下に生き埋めにされて口中を砂まみれにした冤罪死刑囚に酷似していると言えなくもなかった。

「T君! ねえ、T・Y君! もう大丈夫だ、T・Y君!」

 だまし討ちにあったのだろうか。彼等はTとYとを力づくで合体させようとしている! わかった。もういい。諸君。……白く塗りこめられたカミキリムシの内部にわたくしは放り込まれていた。わたくしの背後で、ギイーッと昆虫の口と肛門が永遠に閉ざされたのだった。奇妙な話だ! 昆虫の内臓を仔細に観察してみると、ガラス製の部分が発見されたのだった。どうだ、新発見だ! こんな窮地に追い込まれても、わたくしはめげず、研究を重ねて新発見をした! わたくしは無性にうれしくなってしまった。ガラスの冷気に触れて快感して、気持ちが高ぶったせいだけではない。否! むしろわたくしは昆虫の胴体の内部から外界を眺めるというこの現実に酔いしれていたのだ! ニンゲンだれしも、昆虫ガラスに頬を摺り寄せるだけで真実の喜びがわかるだろう。……外界は人だかりが恐慌していた。見つめていると、そんな外界が次第に遠ざかりながら、いつしか一点へと凝固していき、その一点の前面を昨夜以来降り続いている霧雨がいとも静謐に幕を降ろしていたのだった。……

 

 ……幸せなことに、もう彼には何も記憶する必要などなかった。……彼は昆虫の窓から見える綺麗に刈り込まれた芝生の中庭を毎日眺めるばかりだった。……彼の記憶にひとつだけ残っていることはといえば、時折中庭の散策許可がおりた時、レンガ造りの塀沿いに咲いた白い菊の花びらを摘み取っては、口にいっぱい詰め込んでムシャムシャ頬張っていた楽しい思い出だけだった。