芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

彼女

 私は妻の病状を危ぶんでいた。

 体のどこかが具合が悪い、そんな症状ではなかった。精密検査をしてもどこにも異常はなかった。ただ、日を重ねるにつれ、妻の発言がトテモ正常とは言えない、ほとんど怪奇な状態が続くのだった。……最初、妻はとんでもない文明批評をやりだしたのだ。もうすぐ日本にイエス様がやって来る、真顔でこんなことを言い出した。イエス様は北海道から沖縄まで黙ってお歩きになる。一言もおしゃべりなされない。それでも、今までいばっていた政治家やら知識人やらブルジョアなどもイエス様を目の前にすれば思わず懺悔して止めどなく涙を流さずにはいられなくなるんだ、もうすぐよ、見ててご覧。胸に合掌した両手を押し当て、天を仰いでいる。そんな姿勢で、まるで狐にでも憑かれたように口走るのだった。

 そればかりではない。こんなこともあった。……とうとう妻は一人二役までやり始めたのだ。

 夜半に枕もとでカサコソ音がするな、誰か嫌がらせでもしてるんじゃないか。目覚めて身を起こすと、妻は上掛けをキチンとたたんで敷布団の上に端座し、合掌して、暗い天井に向かってなにやら低声でつぶやいている、

「さあ言ってご覧。<サタン>よ、この世でもっとも笑うべきものは何だろうか」

 すると彼女は狐のようにピョンピョン飛び跳ねながら、座布団を頭にのせて、今度は奇妙に甲高い声で、ソプラノの歌手が歌うように

「それは<男>だ」

 

 いけない……とっさに判断して、妻の茶番を何とか止めさせなければ、彼女の肩を抱きしめてなだめてやろうと起き上がった瞬間、また敷布団に端座して低い声でブツブツつぶやいているのだった。

「さあ言ってご覧。<サタン>よ、この世でもっとも泣くべきものは何だろうか」

 ふたたび彼女はピョンと飛び跳ね、座布団を頭にのせ、甲高いソプラノで、

「それは<女>だ」

 

 よし。既に私は腹をくくっていた。これからは「妻」……というより、「彼女」と呼んだ方が正しいのだろう。妻が変身して所謂「巫女」になってしまってからこのかた、もはや彼女を「私の妻だ」、そんなおこがましいことがどうして私に言えようか。

 巫女の最後は悲惨だった。突然、「まあイエス様がいらっしゃった」、そう叫ぶと、乱れた下着姿のままで、街路をピョンピョン飛び跳ねて、暴走するダンプの下敷きになって潰れてしまった。

 

 いつも未明が近づくと、彼女のすすり泣きが聞こえてくる。長い間、シクシクしている。彼女の泣き声に耳を傾けていると、いつの間にか私はあの言葉を受け入れるようになっていた。「男」は笑うべきもの、「女」は泣くべきもの、彼女のあのソプラノを。