芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

「八木幹夫詩集」を読む。

 この詩人は、大学在学中を除いてほとんど相模原に住んでいる、エッセイにそう書かれていた(本書133頁下段最終連)。大きな移動をしないでひとつの地に根ざして住まいしているから、思い出深い近くの山や川を綺麗に丁寧に描いている。また、おしゃべりをしない静かな白紙の上に、「みみ」や「ほくろ」や「たましい」などの「からだ」のさまざまな場所が浮かび、あるいは野菜畑の「かぼちゃ」や「人参」が生きていたりする。

 

 「八木幹夫詩集」 八木幹夫著 思潮社現代詩文庫176 2005年1月25日発行

 

 第二次世界大戦敗戦後、戦争と革命の時代にかかわる詩、もちろん、戦争批判や革命的なアジテーションを思わせる詩や革命に挫折した複雑な気持ちを表現する詩など、日本の戦後詩はその当時の状況に対峙しながら書かれたものが主流ではなかったか。しかし、そう言った状況に対峙する詩は、戦後日本の驚異的な経済成長とそれに伴う平和な社会の形成によって、徐々に退潮していくのだろう。

 おそらくこの詩人の作品は、戦争と革命の時代が平和な日本の時代に向かっていく転換点に立った詩であろう、私にはそう思われた。

 確かにこの詩人の言葉には、静けさ、わかりやすさ、軽妙洒脱な笑い、嫌なことがあったにせよ今日一日だけはとにかく生きてみよう、そういうささやかな勇気を与える透明感が、ある。それはこんな言葉に鮮明に表現されている。

 

 ぼくは光の無償性を信じたいと思う。生まれてきた哀しみを唯一ほぐし、あたため、なぐさめてくれるのは光だと思う。(本書117頁上段14~16行目)

 

 そうは言っても、この詩人は心の暗みを避けて通っているわけではなかった。ただ、強く打ち出さないが、その暗みも静かにもの語るのだった。以下の詩行を引用して、この拙い稿を閉じる。

 

 声が流れの底に

 降りていかない

 

 ことばが自分の底に沈まない(「白い家 ―一九九七年冬」101頁第20節1~3行目)