芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

Mという女

 最近、といってもここ数年のことになるが、ずっと疲労の中で私は生きていた。

 何故? 理由はわからなかった。疲労の渦中にあるものにとって、理由を考えることそれ自体が、いよいよ加速して疲労の中へ落ちてゆくのだった。

 こんなやっかいな持続型疲労にあって、かつて一度だけ、輝きながら私の眼前に現れた人がいた。その人と出会った時、階段状の堤防に座って海と空と雲を見つめていた私の体から、頑固なかさぶたが一瞬にして剥がれ落ちるように、疲労が雪崩になって砂浜に消えた。

 彼女は堤防沿いのコンクリートになった細道を小さな犬を連れて、私の背後を東から西の方へ通り過ぎようとした。その一瞬、あらかじめ定められていためぐり逢いように、ふたりは見つめあうのだった。まばゆいばかりに彼女が陽光に輝いて、私は恍惚として光に包まれる気持がした。言うまでもなく、既に私は疲労を忘却していた。それから何が起こったのだろう。記憶の断片をたどれば、ふたりだけで散歩をしながら、夢中になっておしゃべりをしていたのだった。また、心がウキウキして燃えあがっていたのか、こんな言葉を口ずさんでいたのさえ、私の脳裏に浮かんでくる。

 

 愛は

 けっして言葉ではなかった

 

 言葉が終わろうとするところから

 それは始まった

 

 仮に彼女をMと呼んでおこう。

 私はMと堤防沿いの細道で何度めぐり会ったのか、そしてふたりでいったい何を話したのだろうか、いまでは思い出すことが出来ない。先に告白したとおり、思い出すには、私は余りにも全身を疲労に病んでいるのだった。

 ひとつだけ思い出すことがある。……Mが連れた子犬を愛撫しようと前傾して近づいた時、彼女は自分の足元の方まで彼をリードで引っ張って、愛撫をしようとする私の手を拒否したのだった。私は顔をもたげてMを見つめた。その眼には、「嫌悪」という文字が描かれていた。

 輝いていた光が砕け散った。Mの背中が遠ざかって点になりやがて細道のどこかの宙ですっかり形をなくした、そんな記憶が私には残っている。おそらくそれは数分ないし十数分の出来事だったに違いない。こうして私の眼前からはもっとも輝いていたもの、限りなく燃えあがるもの、あるいは私にとってとても大切だった現実、疲労を少なからず癒してくれていた海も空も雲も砂浜も、この堤防でさえ、すべてが消失してしまった。