芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

ベルグソンの「道徳と宗教の二源泉」

 葉脈のように横に広がっていく読書が私は好きだ。ずっと広がっていく先は、ほとんど未知の世界であって、あちらこちらでさまざまな人たちの心の喜びや苦しみが光っている。とてもステキではないか。

 

 「道徳と宗教の二源泉」 ベルグソン著 中村雄二郎訳 白水社刊「ベルグソン全集第六巻」 1967年1月25日再版

 

 この本を読んだきっかけは、先日「芦屋芸術」のブログに読書感想文を書いたミンコフスキーの「精神分裂病」に、もっとも強く影響された二人としてブロイラーとベルグソンがあげられていたからだった。

 私は昔、ほんの少しだけベルグソンをかじっている。本箱をさぐったら、上掲の本が手に当たった。この本を以前開いた記憶が私にはあるが、ツマラナクて、というか、チンプンカンプンで、すぐに閉じてしまった。性懲りもなく、また開いた。

 ベルグソンによれば、この本に書かれている限りにおいては、人間は生物の進化の極限にまで至って、自然の生命に本能と知性が組み込まれ、両者が織りなす相補的関係によって一定の秩序を保った社会を形成する。そこから発生する道徳や宗教はこの秩序を維持・安定するための自然的な力であって、一つの閉じられた社会が成立し、その成員の中から反乱を企てようとする者を道徳や宗教の圧力によって抑圧する。

 また、閉じられた社会と別の閉じられた社会の間にさまざまな利害対立によって戦争が勃発する。しかし、戦争の根本的な原因は、人間が生物として保存している戦争本能から発生するのだった。ベルグソンは、平和は戦争と戦争との狭間に存在する、そう述べているが、同じような主旨をフロイトが文明批評の中で述べていたのを、ふと私は思い出した。

 さて、閉じられた社会から脱却して開かれた社会へ飛躍する場合がある。ベルグソンによれば、神秘主義がその役割を担っている。彼は、神秘主義を実践する神秘家を以下のように定義している。

 

 偉大な神秘家とは、種に対してその物質性により指定されている限界をとびこえ、かくして、神的活動をつづけ、それを拡大する個性である。(本書266頁)

 

 ベルグソンはまた神秘家についてこのように語っている。

 

 神秘家は、人類が一つの種であることの必然性から解放しようと欲するだろう。種とはすなわち、集合的な停止状態を意味し、完全な生存とは、個体性における動性である。(本書376頁)

 

 神秘家の人類愛は、理性の理解する抽象的な人類愛ではない。抽象的な人類愛は、人間が理性から離れた瞬間、既に消滅して跡形もない。神秘家の愛は、神との合一体験からあふれ出る愛であって、理念ではなく、けっして頭の中で思考された観念ではなく、根源から与えられた愛だった。おそらく、ベルグソンの語る開かれた社会は、すべての人々がこの愛の中で生きていく、喜び、感謝し、たがいに助けあって創造する社会なのだろうか。