芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

モームの「人間の絆」

 若い頃に買ってそのまま本棚に眠り続けている本を、この頃思い出したように読み始めている。わざわざお金まで出して買ったということは、多かれ少なかれ読もうと欲望したわけで、食べたいと思って買った食材が冷蔵庫の片隅でじっとしているのに似ているが、食材は歳月とともに腐敗してしまう、けれど本は変色しても余程の事がない限り、今でも読む気さえあれば、読めなくもない。

  

  モーム「人間の絆」(中野好夫訳、新潮文庫全4冊)

 

 四十年くらい昔、最初の数頁を読んで、本を閉じた記憶がある。しかしボクも六十歳を半ば過ぎて、モームが四十一歳で発表したこの作品を最後まで楽しめたわけだが、もとはといえば、こんな人生のエピソードを何枚も何枚も積み重ねていく作品など十代の頃は吐き気さえしていたのに、自伝的世界をゆうに数メートルもあるペルシア絨緞に織り上げてゆく作品を、焼酎のオンザロックを飲みながら。

「とんちゃんといっしょにならなかったら、クラシックなんて聴かなかったと思う」、そんなワイフの言葉を思い出す。彼女が亡くなってもうすぐ二年になるが、その間、ボクはクラシック音楽を一切耳にしなかった。……「人間の絆」を読み終えた後、久しぶりに、ワルター指揮、ウィンフィル、彼女が好きだったモーツァルトの交響曲40番と25番に耳を傾けたのだった。