芦屋芸術|同人誌・現代詩・小説

西安

ほんとうはマレーシアに行くつもりで旅行社に予約していた。しかし今夏の酷暑で八月の末になって「西安」に変更した。

9月7日 尖閣諸島沖で中国漁船衝突事件が発生。

9月20日 日本のゼネコン「フジタ」の社員四人が中国で身柄を拘束される。なんでも第二次世界大戦の日本軍が埋設した地雷かなにかの撤去に三人は日本から出張、一人は現地駐在社員。しかしこの問題を論じる評論家はいないけれど。

9月25日 中国漁船の船長釈放。

9月29日 民主党細野豪志が訪中。

9月30日 中国当局、フジタの社員三人を釈放。

10月9日 中国当局、フジタの残る一人の社員を釈放。

10月16日 西安、鄭州、成都、寧波で反日デモ

10月17日 綿陽で反日デモ

10月18日 武漢で反日デモ

10月19日 関空18時30分発上海航空FM822で僕は上海まで。翌日、外灘・豫園商城・南京路を散策して。

10月20日 出発は二時間ほど遅れ、上海発18時ごろ中国東方航空MU2338で西安に20時30分前後になって到着。早速ホテルへ。

とにかくのっけから不思議な旅だった。西安への途上、機内で僕の左隣に座った男、黄色いジャケットに黄色いズボンをはいてベレー帽をかぶった芸人めいた風体の四十歳前後の中国人だが、前原大臣が一面に大写しになった中国の新聞を膝の上に広げて左手で支え、「そうだったのか中国」という日本の文庫本を右手でまるめて、大臣の顔を叩きのめす、パシッパシッと音たて続け。

いい時期に「西安」に来た。日本の観光客18名を乗せたバス、ふつうなら日本語のツアー名がフロントガラスに表示されているのだが、中国語のツアー名に変更されている。つまり中国人の国内旅行に偽装。事実、中国人ガイドの旗も現地旅行社の中国語のそれを掲げて、僕たち日本人を案内して。

しかし嬉しい。言うまでもなく僕たちが利用するような格安旅行の食事は大衆食堂に近いレストランに連れて行くのが常識だが、今回は違った。ほとんどが個室を用意して、日本人観光客と現地中国人との接触を遮断している。個室での食事。ちょっと贅沢な気持ちになる。そればかりではない。まことにサプライズではあるが、西安の初日の夕食など、高級中華レストランの個室で、フルコース。

陝西歴史博物館・回民街・青龍寺・興慶宮公園(阿倍仲麻呂の記念碑がある)・兵馬俑博物館・華清池・大雁塔・シルクロード起点群像……あちらこちらあちらこちら。

ところで、僕は今年の9月14日に下北半島の恐山に行った。そして10月21日に西安の青龍寺に来たのだが、この寺は、周知のとおり、802年から804年までの二年間、空海が遣唐使として真言密教を学んだ。また、最澄の弟子の円仁もここで義真から灌頂を受けた。帰国後、彼は北の果てまで歩いて、円仁の九年余りにわたる中国での流浪を思えばまさに北の果てまで歩いたといわなければならない、下北半島の恐山で菩提寺を開基したのだった。これはなにかの因縁かもしれない。僕は恐山から、ちょうど逆のコースをたどって、青龍寺まで来ていた。

さて、兵馬俑の兵士の顔は全て異なっているという。その理由として、これを建設するため延べ75万の人々が駆り出され、完成後は所詮生きて帰れない状況の中で、彼らは等身大の兵士の顔を自分に似せて造り、そればかりではなく、その俑の足元に自分の名前を刻んだという説もある。

こんな状況下で俑に自分の名前を刻んだと聴いて、僕は一瞬、ふたつの話を思い出した。

まず水上勉氏の話。「竜安寺のあの石が、『虎の児渡し』などいう石に『音二郎』と名が刻んであるんですよ。」「あの石に刻んだ名前を見ておるとね、氏姓がない。だから私は持っていった男がね……。」「つくづくとそう思うとあの庭がわかってくる。私はあれ、無味乾燥でどうにもならなかったが、字を見たときにはじめて庭が生き生きしてきたね」
(日本の禅語録第七巻月報三号、講談社1977.11.15)

シベリア流刑囚の場合。中断収容所「ペレスールカ」を経由して、鉄格子のはまった留置場のような車輌「ストルイピンカ」で囚人たちは新しい作業場に向かってバム鉄道を北へ行ったり南へ行ったり移動を繰り返す。そのうちに一種特別な方向感覚が出てくる。北へ行く時は日本から遠ざかり、南へ行く時は日本に近づいていくような。

「しばしば北へのぼる日本人と、南へくだる日本人とが、おなじペレスールカで落ちあうことがある。」「そのようなあわただしい場面で、手みじかに、明確に相手に伝えなければならない、さいごの唯一のものは、結局は姓名、名前でしかないわけです。」「言いつぎ語りつがれた姓名が、いつの日かは日本の岸辺へたどりつくことがあるかもしれない。その時には、自分はもうこの世にはいないかもしれないけれど、せめて自分の姓名がとどくことによって、その時までは自分が生きていたという確証がのこる。/それはほとんど願望を通りこして、すでに祈りのようなものではなかったかと私は思います。私自身、そのようにしてついに日本に帰らなかった何人かの日本人を知っております。」
そして中断収容所「ペレスールカ」の壁には日本人たちの名前が彫りこんであるという。
(石原吉郎全集第二巻437頁、438頁 花神社1980.3.1刊)

10月23日、西安から帰国したのだが、とにかく中国では前原大臣は人気者だ。ある中国人がこんなことを言っていた。大臣の指示で自衛隊の軍艦が二十隻くらい尖閣諸島に出動している。二十一世紀初頭の尖閣事変から第三次世界大戦。とりあえずそんな事態を回避するため最初のデモ10月16日から一週間後の本日、土曜日にもかかわらず中国当局は西安の学生を構内から出さないために授業をやるとのこと。それから日本人のキャンセルで中国の旅行会社も困ってんだって。ひょっとして、ほんとうに尖閣事変から人間の終末が始まるのかしら。